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最近あまりツイていないと感じます

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有り難し有り難し 27

元からラッキーな方ではなかったと思うのですが、最近特にツイていないと感じます。
この数カ月の間に飲食店の席に糞尿を入れた袋が置いてあって踏んでしまい、靴をダメにしてしまったり、
今日も電車で座った席に汚物(嘔吐物)があり、気付かずに座ってしまい、ズボンから下着まで汚して帰ってきました。
「どうして自分ばかり?」
と思ってしまいます。

今日も駅員さんに「それでどうしたいんですか?」と聞かれて、
「濡れたまま帰れないのでかわりの服を用意してほしい。」と言いたかったのですが、
「どうしたらいいのでしょう?」としか返せませんでした。

最近引っ越しもしましたが、引っ越し先の掃除(クリーニング)がされておらず、
管理会社にもドキドキビクビクしながら伝え、
掃除の人が来ましたが
すごく適当でいい加減な掃除をされましたが、
結局何も言えませんでした。

だいたいそういう時や普段から自分は自分の思っていることを言葉に出すのが苦手です。

過去に父から虐待を受けており、自分の意見や思っていることを伝えると
父が激情し、蹴られ、アザが出来たりしていました。

それがほとんど毎日に近いくらい頻繁にありました。

それから自分の意見を相手に伝えるということが苦手になってしまいました。

こんなことを言ったら相手が怒るんじゃないだろうか、といつも怯えています。

父の怒ったときの般若のような、鬼のような表情が忘れられないのです。

そんな感じだから僕には友達や、本当のことを言い合える人というのはほとんどいません。

そういうのを平気で言い合っている世間の人がうらやましくなります。

そういう人の方が友達が多かったり、幸せそうで
道を歩いていてそういう人を見る度自分が惨めになります。

どうしたら乗り越えられるのでしょうか?

お知恵や助言をいただけないでしょうか?

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ツイテル・ツイテナイを解脱する

一昔前に「ツイテルツイテル教」が一部の世界で流行りました。
どんな状況であれ、とりあえず「ツイテルツイテル」と言って自分を高めるアファメーションです。
あなたはツイテます。
回答が返ってきました。
ツイテルツイテルー。
今後、これをきっかけにもっと大きく飛躍することでしょう。
ツイテルツイテルー。
今日は晴れです。洗濯物がよく乾きます。
ツイテルツイテルー。
雨だったら少し涼しくなります。
ツイテルツイテルー。
曇りだったら両方GETです。
ツイテルツイテルー。
おめでとうございます。
あなたは最高にツイテル人間です。 
めでたしめでたし。
というのはUSOっパチです。
こういうその場しのぎの思考の塗り替え、上塗りな生き方では自分をごまかしているだけに過ぎないものです。それで満足でしたら以下は読まなくて結構です。
ツイテルツイテナイ、幸運不運というのは観念論です。
ブッダ(覚者)の教えは、そういう教えではありません。
人間の想念による良し悪しを離れた生き方です。
善悪、好き嫌い、ポジティブネガティブという思考を離れた実相を生きる生き方です。
お父さんはDVっ気があるようですから、あまり深くかかわらん方が良いでしょう。
力でかなわないなら他の面でお父さんを超えることです。
坐禅がおススメです。
相手がなくなるからです。
自分の中の相手に対する勝手なイメージや思い込みがなくなるということです。
あなたが何も言えなくなるのは、これを言ったら相手がどう思うだろうかという自分の不安につぶされているはずです。
それがあなたの中の相手「他己」です。
自分のセルフイメージにつぶされているから身動きが取れなくなってしまうのです。
それを滅するには、自分に向き合い、自分を見つめ自分から解脱することです。
坐禅をやる人が少ないのは、自分に向き合うことが怖いからということが理由の一つに挙げられます。
それもあらかじめの自分の勝手な不安なのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

本当のことを言い合える人というのは

実際は殆どの人もそんなに巡り会えません、というか出来たと感じた場合それはとてつもなく幸運な事です。

それはさておき、ツキと不運、まずはこれを引き寄せやすい人…というか幸せそうに見える方は基本的にトラブルや問題を楽しめる方です。

そうなりましょう…といってもそれが出来るなら世界中からネガティブなんて単語がなくなるのでまずは簡単な訓練から始めましょう。

人格が形成される途中にトラウマを抱えた場合、人の感情や反応を過敏に反応し、かつ悪い方に解釈してしまいがちといいます

それが相手にとっては特に気にしない内容、次の日には忘れてしまうような事だったとしても「言ってしまった」と感じてしまうと心にモヤモヤが残り、そのまま別の人と話してまた・・・これでは積もってしまう一方ですよね。

ちょっと厳しい事を言ってしまうと、人間関係が元のストレスや自信は運動しても趣味に時間を費やしても根本解決はしません。

ただ誰かと『一回目』のコミュニケーションで緊張するのは程度の差はあれ世界共通です。

「こんなことを言ったら相手が怒るんじゃないだろうか、といつも怯えています。」

これはこれだけ相手に迷惑じゃないかを考えてしまうのですね、それなら

「こういう風に言えば相手には伝わりやすいんじゃないか、と考えてみる。」

これ、出来る人少ないんですよ?

相手を理解し、共感してくれる人、居たらとてもうれしいですよね。

人の機微を思える貴方は人を理解しようと出来ます。

それが出来ると運も一緒に運ばれてきますよ。

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有り難し
おきもち

曹洞宗正教師です フレンチの料理人でもあります 精進料理の講師もしてます 旅と海と綺麗な景色が好きです

質問者からのお礼

お返事遅くなりまして申し訳ありません。
安穏寺 (天岑寺)
丹下覚元(たんげかくげん) 様
座禅も行こう行こうと思っているうちに忘れかけていました。
1度伺ってみようと思います。
ありがとうございました。

常泉寺
大貴様
「こういう風に言えば相手には伝わりやすいんじゃないか、と考えてみる。」
近頃はこれをなるべく意識して生きています。
ありがとうございました。

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