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試練ばかり

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先天性の心臓病で小さい頃から、いろんな事を制限されて生活してきました。

体力は普通の人よりありません。

裕福な家庭でないため、病院代がかかる事をずっと気にして生きてきて、欲しいものも、やりたい事も我慢してきました。

そんな私の気持ちを親も兄弟も誰も気づかないで、自分の事ばかりの家族でした。

私はそんな家族が全員嫌いです。
本当に思いやりのない人達の集まりです。

年老いた両親は哀れですが、私にしてきたことを思い返すと優しくできません。
それは両親、特に父親があからさまに私だけに冷たく接した過去があるからです。

こんな考えの私はやっぱりダメでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の好きに生きる

冷たくされたら当然、そういう気持ちになるものですよね。
気持ちはよくわかります。
ですが、人を嫌うと嫌うエネルギーで自分がますます毒素におかされますから、精神的に分離するべく、心の出家をお勧めいたします。
家族というものは「わたくし」する力が強いと苦しいのです。
私は現在、うちに3人の子供がいながらお寺に居ます。
ワイフは川へ洗濯へ、ならぬ買い物に行っています。
こういう状況ですと、私が家に居なければいけない症候群にかられます。
ですが、本当はそんなことはないのです。
あなたも、昔からいい子ちゃんにしていなければ症候群や、我慢しなきゃいけないんだ症候群、わたしだけのけもの症候群に襲われてきてしまったのではないでしょうか。
人間は自分の置かれている状況を勝手に状況判断して思い込んで自分を縛って身動きが取れなくなってしまいます。
そういう「自分縛り症候群」から自由になっていただきたいのです。
今日だってあなたは出来る範囲で好きなことをやっていいのです。
ですが「でも、どうせ、だけど、だって、ですが」と何か言い訳をし始めることがあるとすれば、それがあなたを縛る「自分縛り症候群」です。
そこから自由になってください。
自分のチカラではどうしようもないときは坐禅会にお越しください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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