生きるとは儚いもの
40年余りの人生を過ごしています。
私には兄が居ました。家族の不和で疎遠となり今では一緒に撮した家族写真などはありません。その出来事は23歳の時でした。私自身、転職した直後に米国同時多発テロにて仕事だけでなく経済力も失い、単身なもの同年の秋には住まいまで失いス一ツケ一スを片手に再起をかけて過ごしカプセルホテルを泊まり歩き公衆手洗い場所での食事することが増えています。
体調を崩し通院や服用薬で現在も尚同じ状況、故郷に20年ぶりに帰り友人が殆ど居なく一人で食事、過ごし最近は体調もあり休日で街へ出掛けても疎外感や体調もあるのか半日が限界で引きこもるようになっています。
'生きる'とは無常にも'儚いもの'か自問自答を繰り返すことが大きくなっています。
以前、母が「兄のことについて育て方が悪かったのかな」と口にしたことがありました。「我が家では兄のことは全く話題にもしなく両親の辛い心情を思うと心の痛みを感じております」
最近、私自身も'健康面で、この先は永く生きれないのか'身体だけで心で気づくことが増える機会が多くなっております。
'楽にもなりたい'と感じつつ'壁を越え、また壁が迫り疲れ乗り越えられるのか'心の叫びでしょうね。'生きるとは無常にも儚いものでしょうか'
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
止めることができないものしかない
全てのものは儚いといえば儚い、しかし、ネガティヴにとらえる必要はないです。
どんなものも捉えることができない、つかむことができない、ものです。時の流れとともに目の前にある机一つも、1秒前の机ではない、常に変化し続けるということも捉えられないほど、「今」しか存在しないです。
だからこそ世の中成り立っているのです。残り物がないからこそ常に新鮮で完璧な生活が送れるのです。
思いや考えの上では昨日まであったものがなくなるというのは悲しくもある、しかし、それが命の流れでもあります。明日の命すら保証されてない私たち、無常のなかで過去の過ちすら引きずることなく思いっきり救われっぱなしで生きることができるのです。
歩み
拝読させて頂きました。
読ませて頂きあなたの可能性を感じました。
あなたはこの世の儚さや無常観を体験なさっておられます。
であるからこそあなたが実感としてこれから切り開いていける新境地があるのではないでしょうか。
そのスタンスやあなたの今立っている地平から見る人々や世の中や世界についてあなたは自分の視点から言うこてもでき、行動することもできると思います。
私からなにがどうこうとは言えませんが、あなたにそのような未来への可能性を感じます。
どうかじっくり腰を落ち着けてから見つめなおし、そうしてあなたの新たな歩みを進めて頂きたいと切に願います。
大丈夫です。
あなたは必ずや自分の足でしっかりと歩んでいかれますからね。
質問者からのお礼
おはようございます。
お言葉を拝見させていただいております。
「命は限りある世界」
今の私は孤独感や不安感、焦りが上手く歩むことが出来ず壁に向き合ってるのかも知れません。私の支えでありますが携帯電話のカメラを使い何気ない街かど、風景をSNSを通じて発信することで上手く表現が出来ませんが「何かを伝えたい」という行動の現れかも知れません。
壁を一つずつ歩むことがこと、時間がかかりますが「ご飯が美味しい、風景が綺麗だな」など言った些細な楽しみを見つけながら一歩、また言った歩めたら…と心で感じ想いを寄せています。毎朝、自宅近くを歩くのを楽しみにしております。お堀端を眺めてると紅白の鯉が寄って来ました。まだ希望を少しずつ見つけながら。
この度の講話、心より感謝致しております。