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将来に希望が見えず苦しいです

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有り難し有り難し 21

先日、4年間付き合ってた人と別れました。
きっかけは些細な喧嘩から始まり、収集がつかず、私も謝るタイミングを遅らせている間に相手は別れることを決意したみたいです。ひどい事も言ってしまったし、私は数日後に謝ろうと思い、連絡したのですが、相手も大事な話があると言い、いきなり別れを告げられました。何度も謝りましたが、もう戻るのは無理だと言われました。
正直、ここ数日は生きた心地がしなくて、食欲も仕事の意欲も上がらず、頭の中で死ぬ方法ばかり考えてしまいます。今日も出張で外に出てたのですが、外にいるのが辛過ぎて、ようやく家に着くやいなや、涙が止まりませんでした。
幸いと言っていいのか、明日から仕事はしばらく休みです。休み中もする仕事はあるのですが、どうにも手がつかない状況です。そして、彼女だった人は職場が同じ人です。人と会うのも怖いし、仕事に行きたくないと思ってしまいます。夏の予定も色々立てていたし、楽しかった思い出もたくさん思い出してしまい、本当に苦しいです。将来も考えていた人なので、余計に喪失感を感じてしまいます。
この先、何を希望に生きていけばいいのでしょうか。何もかもやめてしまいたいです。無責任かもしれませんが。
ご回答お願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

明けない夜はない

愛別離苦ですね…大変お辛い思いをお聞かせいただきました。今はもう何もかも終わってしまった様なお気持ちでしょう。もう死んでしまった方が楽だとも思ってしまうものでしょう。

私事ですが、私もやはりそうでした。でも今まだ生きています。結婚を考えた人との別れも数度経験しました。食欲もなくなりました。それでも何も食べなかったわけではありません。何も飲み食いしなかったら今こうしてここにいませんからね。頭では色々考えても身体はきちんと生きようとしていたわけです。

「もうこれ以上の人には出会えない」

毎回思いました。でもまた次の出会いがありました。

希望が失われたということは、また希望は見いだされる可能性があるということ。変わらないものは何もないのです。出会いあれば別れあり。別れあれば出会いあり。

今は喪失感が大きいとのことですが、彼女は誰のものだったのでしょうか。自分のものであったのなら「失った」とも言えるでしょう。しかし自分のものであるならば自分の思い通りにできたはずです。しかし彼女は去っていった。彼女は彼女のいのちを生きています。あなたのものでも彼女のものですらもなかったのです。あなたがあなたの気持ちが思い通りにならないように、彼女もまた思い通りにならず、別れを選択せざるを得なかったのでしょう。
そんな思い通りにならない二人が共にいることは当然ではなかったのです。まさに有り難い関係だったのです。彼女との別れはあらためてそうしたことを教えてくださったのではないでしょうか。

是非とも教わった事をこれからに活かしてください。そこに希望があるのではないでしょうか。
また良き出会いがありますことを念じております。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

自分の脳内ストーリーが台本通りに進まなかった

人間は思考をそなえた生物ですから、いつの間にか頭の中の思考やあらかじめの設定、期待、願いを優先させるようになるものです。
ところが私たちの体が存在して生きているのは現実の世界です。
ホントはこちらに地に足つけて生活しなければいけない。
それでも優先されている方が思考であるとどうしても、そっちが本当のことであるかのように錯覚するのです。
彼女が授けてくださったものがあります。
それが、思いの世界と現実の世界ということがいかに違うかという課題です。
あなたは、もう過去の世界、記憶、思い出、後悔という思考の世界から離れて、現実の世界を生きるべきです。
拘泥している、身動きが取れなくなっているのは思考の世界です。現実の世界は今日も新たに変化しているのです。
失ったものは現実はありません。
あなたのストーリーなのだということを見破れるまで、自分に向き合ってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速の回答、本当にありがとうございます。
付き合うってすごいことなんですね。そんなことに気づけなかった自分が情けないです。今は希望が見えませんが、待とうと思います。ありがとうございました。

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