知り合いの赤ちゃん
知り合いの赤ちゃんが去年の6月頃亡くなりました。亡くなる3日前のお祭りには元気でお神輿を見ながら楽しそうにしていて、私も抱っこしたりしました。生まれた当時から内蔵が悪く顔色もいつも悪くて、でもやっと元気で1歳になったばかりのことでした。
私は悲しくて悲しくて仕方がなくて、お葬式でもずっと泣いていました。今でもふとその子を思い出して悲しさと涙が出てきます。
知り合いはもうすぐ新たな赤ちゃんが生まれるそうです。私も悲しさを受け止めて心からおめでとうと言いたいです。でも一度思い出すと悲しさがどんどん溢れてしまいます。どうすれば悲しさを受け止められますか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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大悲
本当に悲しくて悲しくて、悲しみのやり場がないようなお話をお聞かせいただきました。
赤ちゃんのご命終にお念仏申します。
南無阿弥陀仏
私が受け止めきれない思いを私ごと受け止めてくださるのが仏様というはたらきです。
仏様というのは何かわけのわからないものが目の前にあらわれて悲しい気持ちをぬぐいさってくれるというものではありません。
悲しい気持ちがとめどなくあふれる今この私といういのちの事実をあきらかにするはたらきが仏様なのです。
では、悲しい気持ち…感情はどこから湧いてくるのでしょうか。私が悲しくなろうと思ってそうなっているわけではない…感情は私の思い通りにならないところから湧き上がってきます。
もう少し仏教的に言うならば、まず私がいてその私に悲しみが湧き上がるわけではありません。悲しいという私がその瞬間のご縁によって成り立っているのです。
私が悲しむのでなく、悲しい私が存在せしめられているのです。
その私の在り方に気づく時、私が私の思いを受け止めるという前に、私という存在の事実が仏法という私を真理に目覚めさせるはたらきによってあきらかになるのです。
ただただ手を合わせて南無阿弥陀仏
私もあなたもその赤ちゃんもその時その瞬間たしかに同じいのちを生きていた。生かされていた。その縁の尊さに目覚める時、今回のご命終は本当に悲しい、そしてあらたないのちの誕生は本当におめでたい、同時に、おめでたいという一言ではけして言い表せないような何か大きな悲しみがそこにある。生まれるからには死んでいかねばいけない事実がある。生きながらに悲しむべきことを悲しめないような悲しみを抱える私の姿がある。
そういう私をまるごと悲しむのが仏様の大悲(だいひ)です。私が悲しむ前に、私を救いたいと悲しんでくださる仏様がおられた。悲しみをとおして仏様の悲しみに遇うのです。
あなたが赤ちゃんのご命終を通して大悲に遇ったように、あなたが悲しむ涙も、誕生をよろこぶ嬉し涙もまたお知り合いにとっては仏様の大悲としてはたらくのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏