父の死についての罪悪感を拭いたいです
先月、父が73回目の誕生日に他界しました。
その死について強烈な罪悪感がぬぐえません。
四十数年間、様々な経験をしてきたのでこうやって冷静に質問させて頂いてますが、若い頃の頃の私なら自殺をも考えたであろうほどの罪悪感です。
とうのも父は6年前に末期の胆管がんを患い、お医者様からもその年を越すのも難しいと言われてました。私なりに父の病気を調べてみても2年生存率は0%でした。
悲しむ母や妹を励ましながら、私は助かる方法を調べ、実行し、詳細は述べませんが、奇跡的に父の症状は回復し半年もせずに退院するにまで至りました。私は家族に感謝されました。
退院後も父は抗がん剤治療を通院しながら続けていましたが、父を救うべく素人ながらに必死に医療を勉強した私は、退院して2年ほど経過した時の父の血液検査の結果から、抗がん剤を止めれるのではないかと思い、抗がん剤治療に疲れていた父も賛同、主治医に相談した結果、止めることになりました。
父の体調も更に良くなり、度々一緒に旅行に行ったりもしました。とここまでは良かったのですが、抗がん剤を止めたとはいえ定期的に病院に通って検査していましたが、確か去年の春くらいの検査時に、少し悪い傾向が見えたので、先生から抗がん剤を再開しようかと言われたのですが、私なりの根拠でまだ大丈夫と父を説得して再開しませんでした。その後も検査の都度、2度ほど再開を先生に勧められましたが、私の一存で再開しませんでした。
しかし、今年4月の検査結果を見た私は、次の結果でも悪い傾向が続くなら抗がん剤治療を再開しようと父と話し合い、10月に予定してた検査時から再開する予定だった矢先に、父が静脈瘤の破裂による出血多量で自宅で倒れ、救急車で搬送され一時回復するも約10日後の父の誕生日に永眠しました。
死亡診断書には胆管がんからの静脈瘤破裂により、最後は急性肝不全と書かれてました。
母と妹は、あなたのおかげで6年も生きることができたと言ってくれましたが、私自身は私の治療再開の判断が間違っていたと後悔・自己嫌悪と押し寄せる罪悪感が絶えません。
一時は私が救ったという驕り、自信過剰な性格、謙虚さの欠如、他様々な要因で判断を誤ったという思いです。
これも寿命とお坊様から言われましたがまだ消化できません。
このままでは一生背負うであろう罪悪感をどうしたら拭えるでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
後悔の念は尽きねども
拝読させて頂きました。お父様のご冥福を心よりお祈り申し上げます
お父様の病の治療や介護は大変な経緯だったのですね。その中で様々な変遷や判断があったことを読ませて頂きました。今あなたはその思いの中で深い後悔の念に苛まれていらしゃることかと存じます。
おっしゃるとおりあなた自身の驕り、自信過剰、謙虚さの欠如、他様々な要因で判断を誤ったことそれもあるでしょうし、それ以外の要因によって結果死に至ったのです。
とはいえ人の生命はそれはめぐり合わせです。自分の判断によってそのように至ることは一因でしかありません。
それこそ全て自分のせいで生命が短くなったというのは大いなる驕りではないかとも思います。ある意味人の死を軽んじてお考えなさっているのではないでしょうか。私達で人の死を全てどうにかできるものではないとも思います。
あなたがご自分のことを反省なさることは大切な事でしょう、そして自分に向き合うことは大切なことです。
そうして何よりこれからはお父様にしっかりとお向き合いなさって手を合わせて心を込めてご供養なさってください。
お父様は仏様のもとにてこれからもあなたやご家族の皆さんをお見守りなさって下さいます。
ご供養なさる日々を過ごす中でいずれあなた自身のお気持ちも恐らくは変わって参ります。
そのお気持ちを大事にしてこれからも毎日を皆さんと共に心豊かに仲良くお過ごし下さいね。
怒りの煩悩
罪悪感や後悔は、「嫌だ」という怒りの煩悩(現実を受け入れたくない、拒絶の感情)に関連しています。
今、あなたを苦しめているのは、あなた自身の怒りの煩悩、後悔の煩悩なのです。
お父さんの病気の件がなかったとしても、煩悩があるかぎり、あなたはあなた自身を苦しめていたはずです。
過ぎ去ったことはどうしようもないのです。
他人が昨日までやっていたロールプレイングゲームを、今日からあなたが引き継いでプレイすると思ってください。
昨日までのプレイヤーが下手だったことは、仕方ないのです。
あなたは今日から、今できることをできる範囲でするしかないのです。
人間の細胞は日々代謝しています。
昨日の自分と今日の自分は、別の物体。記憶は引き継いでいるが、別の新しい自分なのです。
今の現実の自分を幸せにしてあげてください。
最善を尽くされたのではないでしょうか
よしおさま、はじめまして。質問を拝読いたしました。
よしおさまのお父さまは73回目の誕生日に亡くなられたのですね。寂しくなられたことと思います。お悔やみ申し上げます。
よしおさまは、ご自身の判断でお父さまの治療計画を考え実行されました。結果として、お父さまは亡くなられました。でも、医療においてベストな正解はないと私は思うのです。
医師の診断は、今よりも病状が進行しないためのベターな選択をしています。ベストではないのです。医療技術が進んだとはいえ、予期せぬことはいくらでもあります。その中で医師はベターな診断をして患者本人が治療計画を選択していくのです。
よしおさんは、お父さまのことを一心に考えベターであると思われる治療計画を提案しました。お父さまも同意し、選択しました。医師の診断を取るのか、よしおさんの判断を取るのか、選ぶのはお父さま本人だったはずです。
お父さまは、よしおさんの判断を採用しました。結果として、お父さまは少しの期間ではあっても家族と過ごすことができました。
お父さまに対してよしおさんが一心に考えたことは、お父さまに対して最善を尽くされたのではないでしょうか。
質問者からのお礼
【kousyo Kuuyo Azuma様】
ご回答有難うございます。
「人の死を軽んじてお考えなさっている」のお言葉は、厳しいですがその通りかもしれません。
6年前の末期がんを宣告されたときと、今回、救急搬送されてからは、父と一緒に一所懸命、死を軽んずることなく病気と闘っていましたが、病状が回復したことで、その間の、通院治療中は、検査結果に対して、何かゲーム感覚で父の治療方法を考えていたのかもしれません。
死が生と隣り合わせに存在していることを常に心に留め置きながら父の病気と向き合うべきだったと反省しております。
これからは、ご教示頂いたように、心豊かになれるよう毎日供養しながら日々過ごしてまいります。
【中村太釈 様】
ご回答有難うございます。
私は小さい頃に、今でいう医療ミスを経験した経緯から、ご回答頂いた通り、常にお医者様はベターな選択、つまり、その担当のお医者様の技術、その病院の設備、更に、西洋医学という枠の中で、ベターな治療をされているという認識から、お医者様が余命を宣告(=そのお医者様の技術での限界)されても、他の選択があるとの思いで、父の病気と闘ってきましたし、その考えに父も賛同してくれていました。
私なりに最善を尽くしたという思いに、あまり疑念を抱かずにこれからの日々を過ごしていきたいとおもいます。
【願誉浄史 様】
ご回答有難うございます。
1000字では書ききれませんでしたが、罪悪感のもととなったのは、一連の父の闘病生活から最後に亡くなるまで、他にもたくさんありました。特に最後は、亡くなる前の数日は、母が昼から夕方にかけて病院で看病し、夕方から夜にかけては私が仕事帰りに駆けつけて看病するというパターンだったのですが、なぜか亡くなる前日に母と私が看病を入れ替わる際に母が、「今夜は朝までずっと看ていたい」と言ったのですが、私が「お袋が倒れたらもっと大変になるから帰ってゆっくり休んで」と言って無理矢理帰しました。
その次の日の明け方、病院から母に電話がかかってきて駆けつけた時には亡くなっていました。
母な何かを悟ってずっと看ていたいといたんだと思うと、その母を無理矢理帰したことが最後の後悔です。
いずれもご回答頂いた通り、私自身の怒りの煩悩、後悔の煩悩のように思われます。
なるべく今の自分を幸せにするように生きて参ります。有難うございました。