人と話すだけでつらい
ほぼ引きこもりで過ごしていましたが、子供が幼稚園に通い始めてから人と会う機会が増え、とてもつらいです。
子供が大事でたまらなくて、その分自分は子供が守れるだろうか、逆に心配しすぎて潰してしまうんじゃないかと悩み、片時も子供から離れられません。
私が心配性なのは、自身の幼少期に性犯罪にあい、しかし家族にも気付かれずにいたためなにもフォローされず、長年一人で苦しんでいたからです。苦しみを誰にも気付かれなかった事、犯罪者は結局放置された事、十数年後家族に話したのちも結局フォローはなく責められた事、そこからまた何年も一人で苦しんだ事。その間じゅうに聞いた世間の性犯罪や子供への犯罪・扱いに対して、絶望的な思いを持ちました。被害者は大きな傷を受けても、他人はなにもできない。自分で頑張って生き延びるしかない。そしてそう思っているのは、当人ではなく周りの人間の方で、どうする事もできないただ目をそらすか気づかないふりをするのでした。
自分で頑張るのは、そうするしかないのでしています。でも、それを知った他人に距離を取られたり頑張れと言われたり、被害者のように泣かれるのは苦痛です。
被害者も加害者も、無関係だと思っている人からすると嫌な現実を見せる同等のもののようで、早くなかった事にしてくれと思っているのだと痛感しました。
私は子供を守れるだろうか?どんなに守っても傷つくだろう、せめて寄り添えるだろうか。この世に生まれたことを恨むだろうか。その時私は何かできるだろうか。いや、1人の人間に干渉しすぎてはいけない、この子の人生だ。いつまでなら守っていいのだろう?
ママさん達と話すと、自分の過保護ぶりに自己嫌悪し、それを分かっていても不安が強すぎてできない事を、日に何十回も反芻する事になり、家事もできず夜も眠れません。眠剤を処方され、しかし不眠状態から抜け出せず長期間になり、医師からは眠剤の使用を反対されました。
気持ちを切り替え、抑制し、ちゃんと母親役をやらなければ。実の母も信用できない。私がやらなくては。でもそう思うほど、子供にとって不安に種になっていると痛感します。
でも少しずつ手放し、自分だけの時間を作り落ち着こうと努力していますが、フラッシュバックが起こり落ち着くどころではありません。
どうしたらいいかわかりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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専門家か専門的知識を持つ僧侶にご相談を
当たり障りのないことは申し上げられるかもしれませんが、素人の僧侶には受け止められないかもしれないものに悩んでおられるように思います。お子さんの成長にも大きく関係しますので、いい加減なことはいえません。
東京でしたら、高名な精神科医や臨床心理士の方も数多くおいででしょう。また、お坊さんのなかには精神科医、臨床心理士の方も多く、こうした方々にお話を聞いていただいた方がよいように思います。
齋藤大法さんというお坊さんで精神科医の方の名がインターネット上で多く見かけられます。この方にご相談になれば、適切な専門家につないでもらえるものと思います。
一般的な人生相談でなく、専門家の方にお話を聞いていただくことを重ねてお勧めします。
原点を選び直す
こんばんは。先日、「役目が終わったら、さっさと消えてしまいたい」と書かれた方ですね。何だか、「そう考えるに到った原因というか源流があるのだろうな」と思っていましたが、過去のこと、お伝えくださり、特に「無関係だと…」という経験が、今のような状態を強化してしまっているのだろうと推測します。
私は精神科医でも臨床心理士(の類い)でもありませんので、確定的な事は言えません。しかし経験から言うならば、「自分の原点」をどこにおくか?は改めて決めてよいのではないかと思います。お子さんが生まれた時とか、結婚された時とか、ご主人と出会った時とか。何らか「自分の人生を振り返って、プラスに生きようと思ったとき」です。
「そんな思い出、一つもない!」と仰るかも知れません。そうお考えでしたら、そのセリフ自体が「いま私は、辛い事を原点にしているから」という可能性があります。起きたこと自体は変えることができません。しかし「私の原点は、あそこにある」というのは、言わば勝手なストーリーで、それを作る事・更新することは、せめて行っても良いのではないかと思っています。「新しい原点」の候補は、日々新しくやってきます。
また、「問い」を拝読しまして、「同悲同苦」という言葉を思い出しました。「無関係だと…」の反対で、「名前さえ知らないけれど、無関係ではない」と思っている人も、世の中にはいます(だからこそ、あなたも書き込みをするのでしょう)。仏教的に言えば「同悲同苦」でありたい、そう思っていらっしゃる方はいます。