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嫁との関係について

回答数回答 1
有り難し有り難し 24

同居しはじめて1年になりますが、当初から私に何もさせてくれません。
洗濯干そうものなら、「私がするからいい!」と手に持っているのをひったくります。洗濯ものたとんでいるとき、私が手伝おうか?と言うと、「私がするからいい」です。
食事の支度を手伝おうとすると、座っていて と言われ、「おかずを運ぼうか?」とてを差し出してもスルーです。ひどいときは孫のごはんもよそわせてくれません。
この1年嫁の顔色ばかりうかがってばかりでした。
いつも、私にはブスっとして、ニコっともしません。
話しかけても私を決して見ないで、横をむいたまま返事をします。
先日度重なる「私がするからいい」に耐え切れず、我慢も限界になり
爆発して気が狂ったようにいままでの鬱積を晴らすようにわめきたてました。
私は去年交通事故に会い、メンタル部分に影響が出て、度々動くことも出来なくなります。
息子に今までのこと話したら、何もするなと言われました。
夕食のとき、じっと座って何もできないのは、つらいです。
物調ずら益々ひどくなり、頼み事も出来ません。
うごけなくなり、寝込んでいても、大丈夫?もないし様子をみにも来ません。夕食も黙って食べすぐ、部屋に入って。一人過ごしています。今嫁の天下です。同居しているけど、独りぼっちです。
息子に話そうとすると「いいかげんにしろ!」とどなります。
最近は嫁の足音、姿を見ると動機がして、神経がおかしくなります。
どうしたらよいですか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

2つの三角関係 と 六角関係

まず、結婚というものは新しい価値観が入り込んでくるということが大前提です。
お互い、相手のルールはお互いそれがずっと当たり前の価値観だったのです。
彼女は彼女のルールを全うしている。
あなたもあなたのルールを全うしたい。
できることがあれば大いにやればいいのです。

姑には姑ルールあり
嫁には嫁ルールあり
息子には息子ルールあり。

そのルールがルール同士で戦っている。
それぞれがそれぞれの視点でみているから、ゆとりがないのです。
これはお互いの不安を読み取ることで解決するのです。

結婚というものは、嫁さん、姑さん、息子さんだけではありません。
お子さんにはお嫁さんの「夫」という立場があります。
そして、あなたのお子さんという立場があり、間に挟まれて気が狂いそうになっているのが世の中の男子というものです。そこを理解し、苦しみを取り除くべき人は誰であるべきでしょう。誰のどういう態度によってお子さんが苦しまずにすむでしょう。
お嫁さんは、お子さんの「妻」であるという一面を忘れていませんか。
そして、あなたはお嫁さんからすれば義理の「母」「姑」。

母には母ルールあり、
夫には夫ルールあり、
妻には妻ルールあり。

息子さんからすれば母親。孝行は孝行されるべきあり方によって自然に孝行されるようになるものです。
それぞれが、一歩ずつ退いて、それぞれが自分の役割を全うすればよいのです。
あなたは母親としてお子さんの「子育て」は終わりました。
一歩退いて、お子さんの母親色をあまり出さないことをお勧めします。
お嫁さんは単身独りであなたの家に嫁いできた。
味方はご主人をお子さんしかいないのです。
その孤立感を理解してあげることです。
そして、お子さんたちはあなたがどういう寂しい気持であるのかを配慮すべきなのです。
お互いに一歩進んで「私が私が」になるとお互いが窮屈になる。
一歩退いて、してくれてありがとう、ありがとうという態度になれるように視線を変えるべきです。
この話は、3者間でそれぞれ話し合うか、ご主人がおられればご主人に。もしくはお子さんにお願いして、それぞれが、それぞれでとげを抜きあうことで解決します。
あなたはあなたで何もしなくなってしまうと生きがいが感じられなくなってしまう。
ご飯は曜日で当番制でやるなど、工夫をするとよいでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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