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脳出血で倒れた妹の主人の事で悩んでいます

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妹(49歳)を、昨年8月より我が家で預かっています。妹の配偶者(51歳)が倒れたのが7月。1年経過後、脳の60%が死滅してる状態。片半身まひです。歩くこともできません。現在施設にいます。

当時、妹の配偶者は、その父親が病院・その後の施設の費用を負担する。妹の父(私の父)は、妹の家の住宅ローン等と生活にかかわる費用を負担すると決め事としてうまくいってました。

現在、妹の配偶者の父が、施設の費用(役10万前後)がもったいないので施設から8月一杯で出すので、妹は妻なのであるから、住宅ローンがまだまだ残っている家で面倒を見ること。受託ローン・生活費は、働きなさい。と勝手に決めて施設に退所通告しました。

妹は、生まれつきの喘息があり、配偶者が夫婦の営みができず(精神的に過去に何かがあったのだろうと結婚当初医師の診断を受けました)、子供を望めないため、妹の機嫌をお酒でとっていたため、以前浴びるほど飲んでいたお酒の関係で骨が弱く疲労骨折を繰り返しているため、内科、整形外科、神経科と月2万程度医療費がかかる事以上に、喘息をすぐ起こすために働いた事がありません。(妹のアルコール摂取は、妹の配偶者が倒れた時から断酒しました)

しかし、夫婦という形であり、情がかなり残っているので、先を考えず預金も使い果たしてる現在、9月から収入が傷病手当金、あと6か月先からは障碍者年金のみで、ローン(約9万)などを抱えたまま、車いすのから立つこともできない配偶者と暮らすと言い出しました。お金が無理だったら死ぬだけとすてっぱちになっています。何も言う事を聞きません。

アルコール依存者がお酒をやめて、再度、飲み始め始めると身体に更にの負担が出てくると聞いています。その心配もあります。両親に説得して欲しいという事も、もう85歳近く、母が痴呆で食事も作れず、父も透析寸前の身体で頼めません。

妹を、障碍者で労働不可と診断が出てる配偶者と暮らしを再開する事にどういう対応をしたらいいのでしょうか?アドバイスを頂戴できればとせつに願っております。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当に大変であろうと思います。

まずは、ご自分のできること以上のことを無理になさらないでください。
人間は自分の体が一つしかありません。
ご家族、親族とはいっても自分が尽くせることも限られていますし、食事を作る、洗濯をするといっても、食べる口はご本人にしかありません。服を着るべき体もご本人の存在するところにしかありません。呼吸をしているのも本人の体以外にあるわけではありません。
ご自身から、一度あなた以外の存在を精神分離するために申し上げております。
「全部わたしのこと・全部私がやらなきゃいけない」という責務を持つことがあなたの苦しみになってしまうからです。
介護の達人も「上手な距離」を大事にします。
お医者さんでも坊さんでも助けられる人には限りがあるからです。
経済的な負担もできないことはできないものです。
まず問題は、あなたが冷静になるためにも「これは妹自身の問題である」「その上でできることがあって、可能なことは協力させていただく」という姿勢で、あまり何でもかんでも妹さんの言うことを家族だからといって、言いなりになってしまうとあなた自身が疲弊してしまいます。
これは冷たいようですが、こうした冷静な対応をしていくうちに答え「上手なかかわり方」が最終的に見つかるものです。なるようにしかならないものです。
また、妹さんはあなたに依存しているところがあるようでしたら、あなたという存在が無くなった状態でのことを考えさせる必要があります。
妹さんは妹さんで旦那さんからも精神的な自立をしてもらう必要があると思います。
相手に対する愛着というものは人間的情愛です。それをあえて一度捨てて物事を考えませんと、みえてこないことというものがあります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下ご住職様
ご回答、素直な気持ちで拝読させていただきました。「上手な距離」の取り方を一番の課題にさせていただきたいと思います。依存される事と愛着を見直し、紙一重で混ざってしまっていた事を反省し前向きに出来る事のみ応援していきたいと思います。
本当にありがとうございました。

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