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愚痴

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hasunohaで相談を受けていらっしゃるお坊様に相談なのですが
相談内容を受けて気分が重くなることはないですか?

私の友達で口を開けば愚痴を言う子がいて正直気が滅入ります。

お坊様は愚痴や重めの悩み相談に対してどのように接しているのか
気になります。

稚拙な文章で申し訳ありませんがご回答お願いいたします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

お坊さんも人の子

さかなさん
ご質問ありがとうございます。ご質問の件我々僧侶も当然、気分の悪くなる事もあります(苦笑

まだまだ修行不足だと思う反面、その事自体もお坊さんの修行だと私は思っています。

皆様の質問は我々お坊さんにとっても、世の中の人が何を悩みお坊さんとして何が出来るかを実践する、仏様の修行の場だと考えています。

いろいろな質問や悩みを相談して、さかなさんもお坊さんたちを成長させてあげてくださいね。

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おきもち

大本山總持寺安居ののち、松岩寺副住職となる。テレビ朝日系お坊さんバラエティー番組ぶっちゃけ寺出演経験。著書:最高のお葬式・最高のご供養(ベストブック社)地元紙・業界誌に執筆・投稿・取材等。ファイナンシャルプランナー・終活カウンセラー上級・お墓ディレクター2級などを保有。「どんな供養の悩みも解決出来る僧侶」を目指し気仙沼を中心に活動中 松岩寺公式ページ https://bk3027o.wixsite.com/kesennuma

愚痴・相談時の心得 心の中でダブル・ブッキングさせない。

他人事という意味でもクールな意味ででもないのですが、あえて、そこに「自分を近づけ過ぎない」ことが大切です。
「わたくししない」ということをキーワードに「距離感」をもって聴くことです。
気持ちを注ぎ過ぎてはいいけません。
近すぎると感情移入して自分のことのようになってしまいます。
それが「わたくし化」してしまった心です。
だから、完全に自分と切り離す。
カウンセラーは、ずーっと聞いてばかりですから、スーパーバイザー(カウンセラーの聞き手、放出相手)を必要とします。
人にもよりますが、気持ちを注ぎ過ぎたり、心を注ぎ過ぎるスタンスであればあるほど、あたかも自分の事のようになってしまって心が疲れるのです。
世の事件ニュースで心が痛み、ノイローゼになる人すらいます。
あまり感情移入し過ぎるのも問題なのです。
私は、相手のとげを抜くにしても、あまり深くわたくし化していません。
それは上記の意味で「我が事にすべきではない」からです。
私がその事を聞いて私の身の上に行われたことではある。
でも、そこに気持ちを注ぎ過ぎれば完全に我が事と錯誤して、ノイローゼにすらなる。
同調、シンクロし過ぎれば、人さまの事であっても、こちら側が傷つくのです。
距離感ともうしましょうか。適切な間合いを取っています。
また、
これをしたいのに愚痴を聞かなければいけない、とか心の中でダブルブッキングをさせないことです。話を聞く前からすでに❝愚痴を聞かなければいけない❞という姿勢自体がすでにダブルブッキングです。
人は誰でも愚痴というより、受け止めてもらいたい気持ちがあるものです。
愚痴を聞くというより、同調しよう、受け止めてあげよう、という事に集中するのもいいかもしれません。また、あまりにも毎回甘えられたり、依存されたら、はっきりと毎回愚痴ばっかり聞かされるこっちの身になってチョ、という事も友達としても大切な一言です。
何故なら、したいことがあるのに、また愚痴を聞かなきゃいけない、という事が生じているからです。ギター弾きながら歌って足でドラム叩いて、アタマの中で他のことを考えていると、必ずどこかに手落ちが生じます。いまするべきこと、したいことが心の中にある時は、無理して愚痴の聞き役、受けとめ訳に徹しなくてもいいのです。一時には一事に徹することです。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

距離を置いてもいいんです

私ですか?そりゃあ、気分は重くなります。ですが、何かいい事があると、軽くなります。私たちは毎日、分単位で、気分が落ち込んだり、晴れやかになったりを繰り返しているのです。それを知っていれば、どうってことはありません。信号が赤でも、そのうち青になることを知っているから、我慢できるのと一緒です。

ただし、いつも愚痴ばかりの子は困っちゃいますね。さかなさんは、きっと聞き上手なのでしょう。どうしても気分が滅入るときは、その子とちょっと距離を置くべきです。別にそれは意地悪なことでもなんでもありませんから、安心してください。

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おきもち

個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

質問者からのお礼

遠浦山 松岩寺 小黒澤 和常様
安穏寺 (天岑寺) 丹下 覚元様
円東寺  増田 俊康様

ご回答ありがとうございました。
愚痴の一つも聞いてあげられないのかと自分の小ささに
悲観していましたが、そうではないことがわかりました。

色々なご回答ありがとうございます。
すべとのご回答が身に染みました。
本当にありがとうございました。

お礼遅くなってしまい申し訳ございませんでした。

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