母が亡くなり1カ月。生きる意味がわからなくなりました…
以前、身近な人の死でも質問させて頂きました。
初めての月命日を迎え、花を買って備えたり、拝んだり、仕事で疲れ帰宅しました。
ゆったりとした時間を過ごしていたはずなのに、悲しい波が来て、止まらなくなってしまいました。何だか、生きてる意味を感じられないよな、そんな日々になっています。
母が亡くなってから、がむしゃらに働いて、予定も詰めて、それなりに食べたり、飲んだり、笑ったりもして過ごした、長い長い1ヶ月でしたが、二度と会えないという決定的な事実が、頭にもたげて。二度と話せないんだなということも。
今までは、亡くなった方は天国から見守ってくれると信じて止まなかったのに、急に、それは単なる信仰で、本当はただ身体が焼かれて骨になり、それだけの、ただもう何処にもいないというただひたすら悲しい事実だけなんじゃないかと、そんなことを思いながら、苦しくてたまりません。いつもは信心深かったはずの私が今は真逆にいるというか、卑屈になっているというか。
人は、生まれる時も死ぬ時も1人だというけど、亡くなった後に、所持していた物や写真がただ残るけれど、もちろん思い出も残るけれど、もう二度と母が使えない衣類や遺品を見ていたら、虚しくて悲しくてやりきれなくて、私もいずれそうなる、それなら何で生きていかなきゃいけないのかな?という思考にまで発展して来てしまい、自分自身がこのままでは壊れてしまいそうな危機感を感じています。
人前では滅多に泣かないような母で、私もそのように生きてきて、悲しさを話せる友達もいるし、子供もいる。父とは母の病気入院は常に協力して頑張って来た。けれど、今は父を励ましたりもしている。子供の前では泣かないようにしている。
あまり、悲しみを出す場所は多くありません。支えて欲しいはずのパートナーは居ません。兄弟もいません。
唯一無二の、大きな存在の母を失い、今は何故か孤独感で一杯です。10数年間、病と闘う母を必死に守って来たつもりでしたが、後半は疲れも出て来てしまい、もっと気付いてあげられたはずのことがあったと思うと悔しくて悲しいです。何事も母を喜ばせることが、私の原動力になっていた気がします。
話がチグハグなのですが、だからこそ生涯寄り添えるパートナーに出会いたいけれど、ずっと叶いません。父と母のようなパートナーが理想です。子供の為に生きなければならないのに辛くて。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
涙枯れるまで
愛別離苦
人として命を受けた者は、逃れる事が出来ない苦しみです。
私も、17年前に最愛の人をみおくりました。
ままり。さんの、お気持ちが痛いほどわかります。
もっと、もっと泣いて良いですよ。
泣くことも供養です。
大切なかたと、必ず、再会することができます。
その時まで、精一杯の食いをしてください。
供養 とは、難しい事ではありません。
供養とは、再会するその時に、どんな顔で会うか、どんな言葉をかけたいか、どんな言葉をもらいたいか、何を語り合いたいか。
その為の、貴女の生き様です。
貴女ならきっと、精一杯の、供養が出来ますよ。
そして、素敵なご縁にも結ばれるはづです。
大丈夫です。
質問者からのお礼
ありがとうございました。
この一週間、時間を見つけて
泣ける時に泣きました。
今、少し痛みが和らいでいる様に思います。
御縁のお話も、そう言って頂けて
有り難かったです。
色々あっての今です。
一生懸命、精一杯生きて来ました。
これからもぶれずに、努力したいです。