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傷つけてしまった心に何かできることはないか?

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有り難し有り難し 13

怒った時に、恋人に傷つけるような心ないひどいことを言ってしまいました。

すぐ謝罪し、そのようなことは本気では思ってはいないと伝えて、許してはもらいましたが。

たとえ本気ではなくても心が傷ついたのは事実ですし、その傷つけた心に対して何かできることはないでしょうか?
そしてもう同じことが起こらないようにするために何かできることはないでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分を成長させ、他人としての礼儀を忘れずに

欲・怒り・怠け・プライドの煩悩は、あなたにも、彼女にもあります。
まずはそれを認めて、彼女の煩悩に対しては慈しみ(怒らない)を第一に考えて接するのがよいでしょう。
そして、自分の欲・怒り・怠け・プライドをうまくコントロールできるように、自分を成長させるしかないでしょうね。

交際が長くなると、彼女を自分の所有物、あるいは家族のように思ってしまい、言葉や行動が雑なってしまいがちです。
例えば、自分のお母さんには「クソババア」と言えても、初対面の女性には言えないでしょう。
自分の子供に虐待する親でも、他人の子供にはしない。
自分のモノだという感覚が、礼儀を忘れさせる(怠けの煩悩による)のです。
しかし、どんなに親しくても、相手を一人の他人と見て礼儀を忘れなければ、非道いことはできないはずです。
その積み重ねで信頼を回復するのがよいでしょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

自分の押しつけをやめる

あなたの自分の押しつけで、彼女が幸せになっているかどうか。
自分が良かれと思ってやっている。
それはあなたの中でだけの、自分にとっての、自分が良かれ、な生き方です。
それでは、相手が誰であっても、まだ人を本当に幸せにはできないことをここで学びました。
これを教訓に、自我、エゴ、自己中心的なものの見方、怒り、自分のルールの押しつけを止めることです。
俺がオレが、それが世界をダメにしている元凶です。
あなたはあなたの中の、オレがオレがの心を無くすることが、あなたの責任です。
そのオレガオレガノ心を野放しにした結果が、自分もちで、全部自分に返ってくるだけです。
自分のエゴは自己責任ですから、それにむきあっていただければ、あとはやることは一つです。
己を慎む、我を野放しにしない。
文殊も普賢も獰猛な獅子や象の上に坐しています。
それは自分の心をおさめた姿です。
坐禅して、自分の自我の正体を見極めることで、無我を悟り、自分自分した心から離れる事ができます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

怒らないことと礼儀を忘れないようにします。

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