政治に興味が持てません
そもそも政治とかに頭を突っ込むと必ず反対派が出てきて荒れますよね。
そこで消費するエネルギーは本当に無駄だと思うし、こっちも「なんだこのやろう」という気分になって気が荒れるだけで、クリエイティブな面も感じられません。
喧々諤々の議論が大好きな人が居るのも自覚はしていますが、
自分としてはこれならヨガや仮眠でもとっていた方がよっぽど心穏やかに過ごせると想うのですが、自分のように政治に興味の無い人はやはりダメなのでしょうか?
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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入菩薩行論・シャーンティデーヴァ大師・第5章・13偈
ひつじjp様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
拙生は、学生時代に政治にはまり、実際、先では国政選挙に出ることも考えていました。
しかしながら、10年ほど前に、政治に積極的に関ることを完全に辞めてしまったのですが・・
お恥ずかしいことですが、政治にはまっていた時代のことを少しだけ小説に書いておりますので、もし宜しければ・・(笑)
「誇れる社会のために―ある学生の政治開眼」 https://www.amazon.co.jp/dp/483557012X/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_aLHRzb83NKE63
さて、本題ですが、お釈迦様は、あまり政治に積極的に参加されることはなさられませんでした。(唯一と言っていいのかどうかは広義において語弊があるかもしれませんが、お釈迦様の政治介入として有名であるのが、コーサラ国による釈迦族への軍事侵攻の際に三度、それを留めさせたことであります。しかし、四度目は無く、もはや釈迦族の業によるどうしょうもない厳しい因果の流れを見極められることになり、軍事侵攻を見送られ、釈迦族は結局滅亡の憂き目となってしまったのですが・・)
まあ、政治のことを完全に無視するわけではないのですが、俗世における迷い苦しみを超えていくところを当然に目指すため、そのためには、何よりも己の心をまずは陶冶していくことに重点を置くこととなります。
入菩薩行論・シャーンティデーヴァ大師・第5章・13偈
ས་སྟེང་འདི་དག་ཀོས་གཡོགས་སུ། །དེ་སྙེད་ཀོ་བས་ག་ལ་ལང་། །ལྷམ་མཐིལ་ཙམ་གྱི་ཀོ་བས་ནི། །ས་སྟེང་ཐམས་ཅད་གཡོགས་དང་འདྲ། །
「この大地を皮で覆うとしたら、どうしてそのような皮が足りるだろうか。[しかし、]靴底のみに皮を貼れば、すべての大地が覆われているのも同然だ。」
この世の全てを自分の思い通りにすることなど、とてもできるものではないが、自分の心一つをしっかりと治めてあげることさえできれば、別にこの世の全てを自分の思い通りにできなくても、平穏無事に過ごせられるものとなる(この世の全てを自分の思い通りにできるのと同じ効果がある)のである。
川口英俊 合掌
自分に直結するテーマなら興味わく
政治の中でも、自分の生活に直結するテーマなら興味がわくかも知れません。
よく「誰に投票しても同じだ」という声がありますが、実際には大違いなのです。
たとえば、牛丼の値段が上がるかどうかも政治に直結しているのです。
世の中のお金をどう分配するかも政治次第。
貧乏な家に生まれた子供でも大学に行けるかどうかも政治次第。
医療費の自己負担が上がるかどうかも政治次第。
「政治に興味がない」というのは、「政治について知らない」からではないでしょうか。
自分の生活に直結していると知れば、興味が沸いてくるかも知れません。
政治に興味がない人はダメだ、という人の中には、自分の気持ちに共感してもらいたい人もいます。
子供に爆弾を持たせて自爆テロに使うテロリストが世の中にはいます。
「子供に自爆させるなんてかわいそう」と思っている人に、「興味ないな」と言ったらムッとされる可能性があります。
それも政治の話でしょう。
質問者からのお礼
願誉浄史様、ありがとうございます。
実は一時期、政治にハマった時期もございました。
それでノイローゼみたいになりました。
自分としては余り手広く首を突っ込まず、手の届く範囲を清浄に努める事が分相応だと思った次第で、つまりは自分の外側の世界を変えていく様に働きかけるよりも、内面を変えていく事によって捉え方を変革していく方が自分としては適応していけるのではないかと思ったのですが、
論旨としてはあからさまに政治に興味が無いなどと言うと機嫌を損ねる人が居るのでそういう事はなるべく述べない方が良いと言う事ですね。
今後は気を付けたいと思います。
川口 英俊様、ありがとうございます。
ご回答を伺っていて仏教のお話から逸れるので恐縮ですが、ふと老子を思い出しました。
何かを形成しようとする事によって正気で居られなくなるのなら、べき論の立場は逆に妨げとなるのかも知れない、むしろ何もしないと誓ったそれでも抑えきれずに表出してくる自然な働きに寄り添っても・・・いやしかし・・・などという迷いを抱いておりました。
また北風と太陽になぞらって次の様にも思います。
鬼の形相で北風を吹かせ旅人の衣を剥ぎ取ろうとするのに躍起になるのなら、太陽の様に柔和に自らの心を暖めていれば、いずれ旅人もじわじわ伝わってきた熱にほだされて衣を脱ぎ去るのではないか?
実の所、積極果敢に政治に働きかけるのも内面に向け陶冶するのもその境は連続的で、明確に分けられるものでは無かったのかも知れませんね。
自分なりに得心するものが有りました。
ご紹介頂いた書籍も時間が空いた時に拝見してみようと思います。
回答者の皆様、重ねて御礼申し上げます。