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勘違いされて辛いです

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有り難し有り難し 10

上司のわたしsageが酷くて辞めたいです。
接客業なんですが、初めは接遇が良いと言っていたのに、最近になってダメ出しをされまくっていて辛いです。
上司はほぼ同時期に入社したAさんが、お前ら出来てるのかよってくらいいたくお気に入りで、
改善された事や良い事やお客様からのお褒め=全部Aさんと思っていて、
ミスやお客様からのクレームや不具合=全部わたしになっているようです。
その上司とはあまり話をしないし、する機会も時間もないのにいきなりそんな話をされて驚きました。
Aさんが特別仕事が出来て接遇も完璧なのかといえばとてもそうとは言えません。
お客様の前なのにだらしなく座るし、肩と耳で受話器を挟まないと電話が出来ないし、好きな仕事しかせず、雑用や面倒事は全部わたしに押し付けています。
正直無いこと無いこと全部Aさんが上司に言いつけてるんじゃないかと思っています。
上司とは普段話す機会も無ければお互いの仕事を見る機会も無いので、上司は噂だけでわたしを判断しているのです。
前職もこんな感じだったし、両親が毒で、「お前はこう思ってるでしょ」などと、頭の中まで決めつけられて育ちました(今でもそうです)。
だからなのか、いつも誤解され、違うと説明しても誰も納得してくれなくて本当に辛いです。
他の人なら見逃してもらえたりさしょうがないと言われるような事でも、わたしは決して許されることはなく、しかもいつまでもいつまでも覚えられていて、「あの時のあれがなぁー」とずっと言われるのです。
気が弱いのでいわゆるクレーマーにも目を付けられやすく、また、上司はクレーマーの言うことを必ず鵜呑みにするのでわたしの言い分は一切聞いてくれません。
今の職場も辞めるつもりですが、再び同じ目に遭うのは嫌です。
どうしたら本来のわたしをきちんと見てもらえるのでしょうか?
どうしたら頑張っている事や良い所を見て評価してもらえるでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

上司に認められようとする事をやめる

誰かに認められようとするその気持ちもわからなくはありませんが、その気持ちがあなたを苦しめているのではないでしょうか。ご自分のやっていることに自信があるならば、人が認めてなくても、真実は一つです。

上司の方と合わないと思っているのかもしれませんが、それもそういう目で見るのではなく、次に会った時は、過去のことをまっさらにして上司を見てください。過去やあなたの苦手意識を捨てて上司を見ることができれば、(正見)うまくやっていくことができるかもしれません。
仮にうまくやっていけなくても、きちんとやっている人のことぐらい、誰でも見抜くことができます。一生のお付き合いをするわけでもないのですから、そんな上司は放っておきましょう。

あなたが正しいことをしているなら、自信を持っていいのです。堂々と仕事してください。きっと良い循環が生まれると思いますよ。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

きちんとしたコミュニケーション術を

私が台所の副責任者をしていた時の話ですが、上司の方にインゲン豆の先のとがった部分が切って無かったゾ、と指摘を頂きました。
ですが、それは私の上司の典座という料理長の指示であえて残す、という方針のもとやったもので、切り忘れたわけではなかったのでした。
ところが行者(側仕え)の腰巾着の太鼓持ちK氏が「自分がいた頃はそんな事はありませんでした」とこちらを下げて来ようとするので、生き証人をつれてきて証言させたところ「おまえ、いい加減な事を言うな」と、それ以来その腰巾着は信頼されなくなりました。
ちいさな濡れ衣を着せられるところでしたが、振りかかる火の粉は払うべきなのです。
チガウならばNOというのがコミュニケーションです。
仕事というのは一人一人がみんなそれぞれの柱の役割をしているのであって、上下優劣格差差別はありません。
また人が嫌がる仕事でもサラリとできるまでやってみた方がいいと思います。
あなたの中にはまだ仕事に対して格差、やらされている感、上下を持っているように感じます。
「周りの人もそう思っているから」といっても、それでも差別無しにやれるようになってみてください。
私は、世間でいうところの雑用、ド雑用でしょうか?
寺の庭掃きを毎日やっています。
一時期毎日庭掃きばかりで虚しいと思っていたこともありましたが、それは私がそこに自分で独自のみじめ意識を添えていた、わたしの仕事に対する差別意識があったからです。
今では、胸を張って庭掃きをしています。
その美しき掃きっぷりたるや、氷上を舞う浅田真央選手のように、バイクに乗りながらブロワー片手に葉っぱを吹き飛ばしていますので、参詣に来たお檀家さんは二度見、三度見常の如しです。そろそろ大阪の川口英俊さんの草刈りと同じく埼玉の珍百景に一つに登録される勢いです。評価されるならば、ちゃんとコミュニケーションをして、どんな仕事でも胸を張ってやる。そういう姿勢が評価される❝べき❞ところです。情報が評価されるのではなく、実質が評価されるようになるべきです。
その為にもいい加減な情報は、降りかかる火の粉であると警戒し、ちゃんと払った方がいいでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

早速の回答有難うございます。
頭を切り替えて出来る事をやりたいと思います。

回答有難うございます。
幼い頃から自分の意見を持つことは「口答え」として、「いい気になるな」と暴言罵倒暴力でぎゅうぎゅうに押さえつけられて育ちましたので、「あんたはこうだろう!」と言われると猛烈な無力感に襲われ、何も言えなくなります。
たとえそれがバカにして見下した発言であってもそうなので、ストレス解消にはもってこいのサンドバッグなのでしょう。
それがとても嫌なので、何とか言いかえしても、なかなか聞いて貰えなかったり、言い訳ばかりだとか、人の話を理解しない頭のおかしい人だと思われるのです。

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