親鸞聖人の直筆の「南无阿弥陀」について
偉大な僧侶 親鸞聖人の直筆について質問させて頂きたいと思います。
親鸞聖人はとても達筆であると、小説や文献で読んだことがあります。
この前 知り合いの仏壇の中央にかけてある「南无阿弥陀」の掛け軸を知り合い宅で拝見しました。
下記のURLの掛け軸でした。
http://www.kouyu.info/SHOP/SS168000.html
誠に誠に失礼ながら あまり達筆でないような気がしました。
しかし向かって左側の「愚禿親鸞」の筆はとてもお上手です。
この書体にされたのには何か意味があるのではないかと思い 何かご存知の方がいらっしゃれば お教え頂きたいと存じます。
また なぜ「南無阿弥陀」ではなく「南无阿弥陀」なのでしょうか、なぜ「无」の字をお使いになったのでしょうか?
合わせてお教え頂ければ幸いです。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「南無」は、昔のインドの言葉で、帰依を意味する「ナマス」「ナモー」の音写なので、「南無」の他にも「那謨」などいろいろな書き方があります。
私は宗派が違うので、詳しくはわかりませんが、親鸞聖人は「南无」を使っていたよ、という事だと思います。またこれも推測ですが、当時は「ナム」ではなく「ナモ」と読んでいたかもしれません。
「相田みつを」さんという方をご存じでしょうか?「にんげんだもの」なんて詩を味のある書で書いています。相田みつをさんの肩書きは「詩人」ではなく「書家」です。相田さんは独特のあの書体が有名ですが、書家ですので当然いろいろな書体を書く事ができます。その中で、あえて、心に響くようにあの書体を選んで書いていたとの事です。
ですので、ご質問の書も、様々な書体から考えて考えて選んで書いたものと思います。
「南无」が大きく書かれているのは「帰依します」の気持ちの大きさではないのでしょうか。
「无」と「陀」の右ハネが力強く大きく取られており、アンバランスのようでバランスの取れた絶妙な書だと思います。
ところで、匕デックス さんの「匕」は、カタカナの「ヒ」ではないですね?何か意味はありますか?
専門ではありませんが・・・。
まず、お名号ですが、確かにいわゆる「お掛け軸」の文字は小生もあまり達筆とは思えません。恐らく「書きなれていなかった」のでしょうか、バランスが悪いです。但し、上が大きくだんだん小さくなっているのを「下から見上げた時」字の大きさが同じように見えるように・・・、と説明する方がいました。一理あるかとも・・・。もう一つは、お木像の阿弥陀仏立像が少し「前かがみ」に作られているように、上を大きく書いて「前かがみ」に見せた、という説もあります。
なお『教行信証』の文字は、書道家によると、当時の流儀の一つにある書体で達筆だそうです。つまり、小さな字は書き慣れているためか、バランスも良く達筆で、大きな文字は不慣れで、あまり達筆ではなかった・・・という事かと(但し、ご真筆でない可能性もあるかと・・・)。
次に「无」ですが、親鸞聖人は「無」の文字は使っておられません。つまり、理由は解りませんが、一貫して「南无阿弥陀仏」です。なお晩年は「无」から「旡」に代わっております(点が着いています)。若い時か晩年かの筆跡鑑定の「目安」にもなっています。ちなみに「お掛け軸」のお名号は「南旡阿弥陀仏」ですので晩年のものだと考えられます。合掌
質問者からのお礼
ご回答を頂き、本当にありがとうございます。
とても勉強になると同時に、それぞれの味わいがあり 心に感動として響きました。
「南無するという気持ちが南無を大きくさせた」、「あの書体で阿弥陀様を表している」お寺で法話を聴かせていただいた様な、ありがたい気持ちでいっぱいです。
光禪さま
私の「匕デックス」についてお答えさせて頂きます。
おそらく変換ミスかと思います。特に意味はなくミスなのですが、これを記に「匕」について調べてみましたら「匕」には「さじ、小刀、矢じり」などの意味がありました。
かっこいいような気がしましたので、このまま「匕デックス」を使わせて頂こうと思います。
鋭いご指摘で恐縮です。
光禪さまのご回答は秀逸で感動しました。
きっと素晴らしい鋭い洞察力を持たれた僧侶様だと思いました。
ありがとうございます。素晴らしいご縁を頂きました。感謝します。