全てがノイローゼに変わってしまう
こんにちは。
日々の悩みは尽きないのですが、この度は「ノイローゼ」についてお伺いしたいと思います。
私は只今羊毛フェルトでの小さいぬいぐるみ作りにハマっています。そもそもそれほどハードルの高い作業ではなく、少々手先が器用ならそれなりに見れる作品がすぐに出来上がる様なものです。
縁あって始めるきっかけがあり、何となしに両親や親せきに作品をあげたら大変喜ばれました。自分が作ったもので喜んでもらえるのはこんなに嬉しいものかと思いました。
じゃあそれでめでたし、と言ったらそうはいかないのが悲しい性でして...。それからまた私は色々なものを作るのに挑戦していて、周りの人は褒めてくれもするのですが、自分ではどうもしっくりきません。他の方の作品を見ては、自分ももっと上手にならなければ、自分のものはまだまだ下手くそだ、と変に追い詰めて考えてしまいます。羊毛フェルトづくりは今後も続けたいほど好きなのですが、何だか胃がギュッとなる様なしんどさを覚えています。
これまでも似たようなことは度々ありました。仕事で英語を少し使っているのですが、自分のレベルは大したことないと実感する度凄く落ち込んでしまいました。音楽や絵もそれなりにできるのですが、やはりあくまで「それなり」なので、大したことないような見方をされてしまうと「下手である自分」に自己嫌悪を感じ続けられなくなりました。褒めてもらえることがあっても、どうしてもネガティブな気持ちの方が大きくなってしまいます。
もちろん、自分が何でも一番上手なわけないのですが、趣味などを始める度、この妙な強迫観念に襲われるのが辛いです。どれだけ練習をこなしても、必ず自分以上の方はいますので、もはや気持ちの問題かと思います。何とか、大したことが無い自分というものを受け入れられないものでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
劣等感は毒にも薬にもなります。
嬉しく思う気持ちを素直に受け止めることができない。
苦しい事です。
自分よりもっとできる人がいるから、この程度の腕前では喜んではいけないと、自ら禁止令を出されているのでしょう。
本当は、喜びたいと思われているのでしょうね。
「他人と比べてはいけない」
もうこのことは、お分かりだと思います。
でも、わかっちゃいるけど、毎回比べてしまう。
努力しても、「それなり」以上にはならない。
いや、努力できていない事もあるけど、自分は頑張っている。
それを他人から悪く言われると、やはり腹が立ちますし、悲しくもなりますね。
しかし、ひーさんは自分が大したことないと思っておられる。
普通の人だと理解されています。
平凡で何が悪いのでしょうか。
天才になればそれで幸せなのでしょうか。
他人と比べず、人の評価を気にしなくならない限り、苦しみを背負ったままです。
率直に申し上げます。
開き直って下さい。
信念のようなものをお持ちください。
「いや、特に平凡なので、そりゃあ上手な人はごまんといるでしょう。」
「しかし、評価してくれる人はいますよ。」
「これが信念を通した結果なんですよ。」
気分の悪い事を言ってくる人とは関わらなければいい。
人生は修行と言いますが、あなたは趣味を通して、人の苦悩を学んでおられます。
同じような悩みを持つ人に、なにか分かち合っていただければと思います。
また、他人と比べてしまうことは、誰にでもあり、軽減することができても、これは生涯ついてまわるものと覚悟してください。
私も、今ひーさんに回答しておりますが、もっとデキル回答僧がいるんだろうなと少なからず思っています。
他人と比べちゃいけないが、わかっちゃいるけど、自然と比べてしまいます。
しかし、質問者に何か伝えたいという信念はあります。
絶対に自分にしか出せないカラーがある
まず、自分の声を録音すると多くの人は自分の声が気持ち悪いと感じるそうです。
普段、頭部(👂゜o゜)のパーツの一つである口、耳で体感している感じと異なり、妙に生々しい感じがあるからでしょう。
では、それを他人様のものを聞いたとします。
ご本人様がやたらと「自分の声が嫌い」とか言ってたとしたとしても「どーでもいい」と思うはずです。周りからしてみるとチョー何ともないものなのです。
顔のどこどこにほくろがある。変な風に思われたらどうしよう。
☞うん、誰も気にしてないからね。
右目と左目の形が違う。
☞うん、誰も気にしてないからね。
生え際がきになる。
☞うん、誰も気にしてないからね。
同じように、私が珍回答を連発しても誰もさほど気にしていません。
ここの回答僧だって甘口もいれば辛口もいます。
ナスもいればカボチャもいますトマトもいます。
ジャズもいればクラシックもいればポップも演歌もいます。
それぞれがそれぞれの回答で回答が被ったとしても、それは同じタイミングでたまたま同じこといったというだけで本人の人生は育った畑も出会った人もみなバラバラで「比較にならない」ものなのです。
作品とはむしろこの自分自身の本体の方なのではないでしょうか。
それがわかるともっとクリエイティブな発想が沸いてきてどうしていいかわからなくなるくらいです。すべてがノイローゼどころか、すべてが自己の分身であると気づくことで、出し惜しみもなくなり、同じことなどご飯を炊くことですら同じように炊けないとわかるはずです。
すると比較のない超・絶対世界で、全宇宙でたった一回きりの活動であるので評価も不要になり、評価に苦しむことなどなくなるのです。
自分がどうかです
拝読させて頂きました。
あなたが素敵な趣味をもって作り皆さんに喜んで貰うことはとてもいいことですね。
ただその様にお考えなさることも分かりますね。
人間ですから比較してしまいます。
あなたのお気持ちを心からお察し申し上げます。
それでも、
「落ち込むならば比べないこと、目標にするなば参考にすること」です。
所詮自分と他人とは感性も特性も違いますし、能力も違います。
ですからそれぞれでいいんです。
私も本当にお経の声が素晴らしい方の聞くと自分でがっかりします。
あんまり才能ないな~と落ち込みます、
がそれでも称えるお経の内容は変わりません。仏様の教えは変わりません。
あえて変わるとすればそのお経や仏様の教えを誠心誠意お伝えしようと自分が一生懸命やっているかどうかです。
大切なのはその自分の心ですからね。それが結果として形や表現に現れてきます。
別に他人に評価されるためにやっているわけではありません。
自分が本当に誠心誠意ものごとに打ち込んでやっているかどうかです。
他人の評価はおまけみたいなもんです。気にしない気にしないです。
あなたがご自分で誠心誠意ものごとに打ち込まれて心から充実して健やかに生きて行かれる様にと切に願っています。
どうか頑張ってくださいね!
質問者からのお礼
皆様、ご回答頂きありがとうございます。まとめての御返事で失礼致します。
薄々は感じていたのですが、やはり「ナンバーワンよりオンリーワン」ということでしょうか。一番上手、と私自身も文中で書いてしまいましたが、よくよく考えたら余程の差が無い限りは一番なんて殆ど好みによるものですよね。元々神経質なきらいがありますので、余程ひどい出来になってしまったとき以外はあまり考えないようにしようかと思います。
でも、自分の中で常にベストを求めていきたいので、近所の教室に通ってみることにしました。そこそこ器用なので今まで自己流でやってきたのですが、プロの方に教わることで、より納得いくものが出来たら自分を責めないでいられるようになるかもしれません。
この度は大変ありがとうございました!