閻魔様に向けて「罪業委託契約書」
それまでの行いの悪さを一心に悔やみ、いまにも事切れそうなほど病で苦しんでいて、今までの人生を悔い続けている殺人鬼など、多々色々の悪人と呼ばれる人たちに向けて。
それら悪人に向けて、お坊様はこのように言う。
「あなたのこれまで為した罪は私が一身に請け負います。
閻魔様にお会いしたならば、『○○という坊主が私の罪を受けて下さります。
ここにしっかり契約書があります』と閻魔様に言って、これから書く契約書を彼に見せなさい。」
その契約書には双方の名前とその方の後悔していること、罪だと思うことを列挙させて、それらに伴う悪業を○○(僧)に委託する。と書く。
そして双方の拇印をしっかりと押す。
これは原則、密約として誰にも漏らさないこと。
二人だけの秘密にする。
知れ渡ってしまうと、本当に心から後悔なんてしていないものが悪事を為すための恰好の材料になってしまうから。
その方が亡くなられる前に契約書をしっかり見せて、
その契約書を棺にこっそり入れて、
共に燃やして、地獄へ持っていかせるようにする。
このようにすれば、
罪に苦しんでいる者は安心を得て死に臨むことが出来るし、地獄に赴いても何とか救われるだろうと落ち着く。
完全無料だが、お金を払わないと実感が無い!という現代世俗思考に染まってしまった者からは、その方の心よく満足するところまで吐き出してもらえばいいでしょう。
世間がどうしようもないと匙を投げる人物も助かる。
私はとても天国に行けないと悩むものは、高僧に罪をなすりつけりゃいいのだ。厄介を擦り付けて思い残し無く天国とやらに行けばいいわけだ。(半ギレ)
まぁ天国はお坊様の管轄外でしょうけども。
看取るもののいない孤独の身でもこれで安心です
これで万事OK。まぁるく収まるもの。
誰か採用しませんか?しませんか?
著作権料タダですよ? ( ˙ө˙)「凄い!!!」
私のアイデアだと売り出したかったら売り出してもいいですよ。
とっさの処方箋も大事でしょうからね。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ちょっと似ている借用證文がありますが
なかなか素晴らしい発想ですね。それだけ、人間の業というものを真剣に考えて居られるのですね。方便としてなかなか有効な方法かもしれませんが、現実に「他者の業を引き受ける」ことは不可能であると私は理解しております。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の「ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」のように、共に泣き共に悲しむぐらいしか出来ないと考えております。
私は阿弥陀様に全部おまかせしていないから、自分で行った行為に伴う結果は自分で引き受けるしかないという立場に立っています。松原泰道老師は講演や著書で「仏教は一人称。」と言っておられたことが思い出されます。「因果応報」「自業自得」とは、他者の不幸の原因究明の手段では無く、努力を続ければ必ず安楽の境地に至れるという修行の道筋を説き、未来に向けて主体的に生きることを自覚する教えだと思います。 閻魔様の審判を心配するなら、現世で改心して今の人生で少しでも善き行いに努めていくことが大事だと思います。
面白みのない回答ですみません。
以前、私の友人がFacebookに「五尺之躰借用證文」というものを投稿してくれたんですが、これがなかなか面白い。画像を直接貼り付けることが出来ないようなので、拙ブログにアップしてアドレスを張り付けておきます。ご参照下さい。
「五尺之躰借用證文」
https://blogs.yahoo.co.jp/dorinji/37725070.html
実はそれに近いことを遥か昔に阿弥陀様がやってます。
ですから私達は南無阿弥陀仏と唱えるだけで、地獄に行くことなく、閻魔様にも会うことなく、極楽浄土に往生できるのですね。有り難いことですね。
共に唱えましょう。
南無阿弥陀仏
往生
拝読させて頂きました。
聖章師のおっしゃるとおりです。
私達は全て罪を犯した極悪人です。
その極悪人が、「どうか阿弥陀仏様、どうかこのような愚かな私をお救いください、仏様のお浄土である西方極楽浄土にお導き頂き往生させてください」と誠心誠意心を込めて願い『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ』とおとなえすることにより、全ての者を阿弥陀仏様は間違いなく極楽浄土に往生させて下さいます。
そこでは一切の苦しみもなく安心と楽しみしかありません。そこで一切の罪も清められていき、阿弥陀仏様から直接み教えを受けさせて頂き、全ての者は悟りを得て成仏させて頂けるのです。
どうぞあなたも至心に南無阿弥陀仏なむあみだぶつとおとなえなさってくださいね。
そして極楽浄土にお導き頂き往生させて頂きご成仏なさってくださいね。
質問者からのお礼
吉田俊英様
勉強になります。回答有難いです。
>努力を続ければ必ず安楽の境地に至れる
僕はここを読み違えてしまっておりました。
坐禅の日々、努力に明け暮れたからこそ、救われるような体験があったのだ!と思い違いをした。
これ自体が鎖であり、自由を奪うものだったと4ヶ月程掛かってようやく気付きました。
だから大悟といい解脱といい、他者にも「悟る(救われる)ために坐禅、勉学を頑張って!」などと言ってしまう。
どうも自惚れて…すいません(いつもの)
これはおぎゃーと声をあげて、赤子から今までの人間社会において身に付けた思考方法で、
「目標を定め、認めて、努力し、得る」という縛りであって、仏法はこのような人間的な思考とは全くの無関係でありました。
それまでの生活は、息苦しい、息苦しいと酸素を求めて彷徨うような愚かな事をずっとしていて、
酸素は元より満ち渡っていたのだ!と、目が覚めたと思ったら、
酸素ボンベをガッチリ装備、担ぎ込んでいたのには、親しいお坊様も苦笑いでした…
重いだろう…重いだろう…馬鹿かね?君は?という話で…
このように「教え」がなくては、生きていけないような情けなさがありました…
『一を得て足れりとするなかれーーそのままで続けるように』と、ある老師が言った。
悟りを得たと自分自身認め、それを見せてやろうという馬鹿馬鹿しいこと限りなし。
そして自己と同じほどに至らせようという慢心傲慢さ。本来無一物っていってんのに。
そして、本来無一物こそ如来であったと。
http://www17.plala.or.jp/tozanji/bn/sikantazaq-a.htm
至道無難禅師の「即心記」や「自性記」などを読んでみたら、尊敬する老師とそっくりで驚いて…
雪担老師大好き。
自ら悟り、救いに至ろうと励む『自己を忘ずる』事が肝要な部分だった。
「阿弥陀様に死んだ後、救ってもらうために南無阿弥陀仏と唱えよう…」
「悟りを得て救われるために坐禅しよう…」
生きる事、死ぬ事を思う自己を明らかにする。すると生きる事、死ぬ事がハッキリする。
このままでさっぱりよくないといっている自分を忘れる。
この「自己と呼ぶもの」が思いによって作り上げた観念であり、苦しさそのものであり、
掘り起こす、断つべき根であり…
観念で自己という観念を救うのは難しいでしょうねぇ…無理でしょう。
一時は安ぐだろうが、一時落ち着いたことで、それに中毒のようになり、
その事にブツブツと縋りついたらしょうがないでしょうね…
そこで坐禅に分があるんでしょうね。それら計らいを仏の家に放つというか…
悟りに至らせようというのじゃなくて、何というか、
それに至ろうなどと言う人間は、「私は立ち方が分からない。どうすればいい?」というようなもので…
背後からこっそり近づき、お尻に針を突き刺して「痛いッッ!!!」と跳ね起きたら、
もう既にしっかりと立っている。
元から立てる足があったのに悩んでいたのか!アッハッハッハッハという馬鹿馬鹿しさで。
悟りに至らせるために歩ませるというよりも、担いだ来た余計もの降ろさせるって感じですかね?
思いに振り回され苦しんでいるのだから、重荷を自身で降ろすように整えてやる事が大事でしょう。
その人が何考えてるかなんて事は、分からないものですし、結局は当人が励むしかないんですね。
吉田様の仰る通りで、「自分で行った行為に伴う結果は自分で引き受けるしかない」んでしょうね…結局のところ、大事な所は…
しかし、観念によって観念を被せて、楽になることもあると思うのです。
「仏」でも「神」でもいいですが、それに向けて、南無阿弥陀仏、アーメンと唱えて心に神仏を描けば、それが例え観念であったとしても、
とても超熱した鉄球を洗面器一杯分の氷水に入れるような程には多少冷めて楽になるかもしれない…
上記の質問の方法は、お坊様とその方の関係性次第によって、罪を悔いている方でも、かなり楽になるのでは?と思うのです。
修行に励ませようとしたところで、聞かない人もおり、色んな人がいるわけでして…
>現世で改心して今の人生で少しでも善き行いに努めていくこと
これがついにその人は、出来ずじまいで終わるかもしれない。余命わずかだったりして…最後の手段ということで。
そのような方にはいいのでは?と思い…
話は変わって…
ここhasunohaにおいて、愚かにも求め続ける「私」を照らしてくださるのが阿弥陀様の働きです。と、書いているお坊様がいて、素晴らしいと思い、その方の回答をいっぱい見て気付く事もありました。感謝です。
私は本当に無智無学で何も知らないのです。それでいいし、それがいいのだと開き直ってます(笑
書籍はよく読むのですがね…。
右から左で抜けていって何とも…(笑)。まぁ笑えてるから別にいいか!と…
師と言っていいのか分かりませんが、
今は、その方の勧められることを中心に覚えるようにしてます…
生意気な質問をしてしまって、申し訳ありませんでした…
でも、やっぱり結構この質問、いい方法なんじゃないか?と思っているんですよ!!!本当に。
ブログもしっかり読ませていただきますね!ありがとうございます。
陰キャラ特有の早口で喋ってそうな長文、どうか許してください…
あまり普段、喋らないもので…テンション上がっちゃって…
>真宗の門徒さんでも、閻魔さんのところを通らないと、
>阿弥陀様のところには行けないのでしょうか?
生きている間だとか、死後だとかごちゃごちゃ言わずに、
いつもぎゅっと抱いて、迎えてくださってるのでしょうね。
阿弥陀様のところに行くというより、向こうから降りてきて下さっている。
僕らそれに気付かんだけで。無条件なのに、いつだって救いの意味を求めてしまう。
閻魔も死神も、また、あらゆる悪魔は、阿弥陀様にはまるで及びもしないでしょうね。
このhasunohaである坊さまが、このような事を書いていたので、僕の思ったことをば…
>お釈迦様は言いました。
>「生きることとは努力することである。
>努力しない人は既に死んでいるのだ。」
どのように貴方は読まれるだろうか?これを書いたお坊様は、
「命が続く限り努力しましょう。 」「自分磨きをしながら、努力しましょう。」
「夢を諦めることがあなたにとって魂の死に値するなら、諦めなければいいと思います。 」
とこのように読まれた。これもこれでいいと思います。お釈迦様は、すごい。
死人迷わず。夢を描かず。
一秒前の自身は無常ゆえ、既に死んでいると考えますか?
自身というのも愚かな事。さっさと忘れて捨てちまって、眼前まっすぐ打ち込む。
踏み外して困るという道なら外れてしまえ。それは道などでなく自由を奪う思い込みなのだ…
と、僕は言いたい。ま、時と場合もあるだろうけども…相手によりけりで。
私は、断固として世間娑婆流の夢教育には反対である。断固として。断固として。
それだけは、ハッキリと伝えたかった。合掌