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上司

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有り難し有り難し 9

何度かお世話になっております。

職場関係で上司に不満を持たない方なんていないとは思いますが、上司といいますか、私が働いている店舗の女性店長の事です。

何かと、自分が納得いかない事があれば、何でこうしなかったのか、こうは考えなかったのか
、ここの物はここ以外置いてはいけない等、細かすぎるほどに些細なことでも怒られます。

自分と同じ考え同じ行動をしなさいと上から押さえ付けられるような感覚になっています。
なので、私を含め他の店員も思うように身動きが取れず萎縮してしまっていて、何かをしようにも常に怒られるんじゃないかと考えてしまうようになってしまいました。

人の行動を認めてくれず、出来ない人だと決めつけるような言動をするので、精神的にすごくしんどいです。それに、人数が少ないので辞めるに辞めれない状況です。
また、近々一人辞めてしまうので、更に私に負担が増えてしまいます。

それでも、辞めればいいじゃないと言われればそれまでなのですが、言ったところで、人数が少ないから辞めることは許さないと言われるのがオチです。
この先どう耐えていけばいいのか分かりません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

踏み込んでいきましょう👣 その次の 次まで…

…シンクロしました…
その上司の方にこう伝えてみてください…。
(゜.゜)
「〇〇店長、いつもご指導いただきありがとうございます。
先日は〇〇の件でとても勉強になりました。ありがとうございます。(ヨイショヨイショ)
お忙しいところ大変恐縮なのですが、常日ごろ私どもに「こうしてほしい」「こうしなさい」とご指導される理由について教えていただきたいのですが。

私もできる限り〇〇店長のご要望にお応えして、お店の為にも、店長の為にも何としてもお力になりたいといつも考えています。
ですが、私も若いスタッフも打たれ弱いので、ただ「これだけやりなさい」と言われましても、理解力が鈍いので(謙遜)どうしても「なぜこれをこうしなればならないのだろうか」とか自分たちの無能さ(謙遜)を責められているような気持ちがわいてきてしまうのです。
差支えなければ、今店長が、今後お店として、これをこのように推し進めたいと思っておられることや、目的や方向性を私たちにもお聞かせいただけないでしょうか。(ミーティングなどで)

私たちはお店のスタッフ、一員としてお力になりたいのです。部下としての私たちを少しでも信用していただけるよう努力をしたいと思っております。ですので、今後の方向性などを明確に教えていただければ、私どもも喜んで協力させていただきたいという気持ちで、具体的にお力になれると思うのです。」

…的な、カタチで店長に失礼の無いように言葉を上手に選んで
「なぜその人があなたや他の人たちにそこをそうさせようとしているのか」を聞き出してください。相手方は、逆になぜこの人たちは何度言ってもよくならないのかしら?と思っているはずです。
敵対してもお互い利益はありません。
譲歩して、へりくだって、相手の真意を聞き出すことです。
それによって、いままでかみ合わなかった歯車もうまくかみ合って「ああ、そういうことでしたら喜んで」とお互いスムーズにいい関係が作れるでしょう。
…はい。以上です。

立場は上下があっても、進む方向は同じであるべきです。
進むべき方向を乗組員であるスタッフさん方が船長(店長)から聞き出すというヨイショ大作戦が効果的であると思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

今まで、そんな風に考えたことも無かったので、改めて分からないこと、なぜそのようにしなければいかないかを聞くように心がけてみます。
以心伝心で伝わるものなら、苦労は無いですよね😅
少し、気持ちが楽になりました。ありがとうございました。

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