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母の病気について

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私は20歳になったら母に臓器移植をしたいと思っています。

今日、移植についてどのような意思があるか聞いてみたところ、様々なことを考慮し、あまり移植については考えてなかったように見えました。

母はこれから、新たな治療をするための準備をしていきます。
いつもあまり弱音を吐かない母が、その治療が始まった後の生活を心配しているような話をしたり、落ち込んでいる姿を見ると涙が出ます。

母は私が生まれてからすぐに病気になりました。その時からずっと辛い日々を過ごしていると思います。
苦しみから緩和させてあげたい気持ちと、少しでも長く元気に生きていて欲しいという気持ちから、私は移植をしたいと思いました。

しかし、まだその意思を伝えることが出来ません。言った後にどのような返答がくるか母の気持ちを考えると怖くなってしまうからです。

また、心のどこかで私自身、移植について怖いという意識もあるのかもしれません。

私が今考えていることが母の負担になったり、本当にこの考えが正解なのか考えれば考えるほど分からなくなってしまいました。

誰にも相談できず、今回こちらで相談させていただきました。回答していただけると幸いです。

最後まで読んで頂きありがとうございました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

手が合わさります

すばらしいお気持ちです。
母親として、お母様として、これ以上うれしいことはないでしょうが、同時にこれ以上に悲しい気持ち、複雑な気持ちになることもないと思います。
子供として、純粋に母親のチカラになりたい。その為に自分の臓器まで提供されたいという気持ち。なんと美しい気持ちでしょう。ですが、お母さんはお受けになられないかもしれません。
私も子供がいますが、さすがにわが子の人生を削ってまでは、という気持ちになります。
「親という存在は子供が健康で育ってくれることが一番幸せなのです。
どうして子供の健康、安全を奪ってまで生きようと思えるでしょうか。」というのが一般的の多くの親御さんの気持ちだと思います。
どうか、ご無理をなさらず。
その気持ちがあれば、あるだけでもお母さんが生きる気力がわいてくるかもしれません。
難病であれば、第三者を通してインターネットで「母の病気を治してあげたい」という基金を募ってみてはいかがでしょうか。
あなたの純粋なお気持ちに多くの人が共感して、裕福な方が手助けしてくださるかもしれません。
また、病気にあって「病にあらざる心」というものがあります。
私たちは誰でも「いつか死んでしまう」という病を抱えています。
それであっても、心が病めば体が健康であっても元気がなくなってしまいます。
ガンであっても心が元気である人は、病に負けません。
精神面においても、お母様を健康になっていただくように、おかあさんに元気になっていただくためにもお寺で仏教の勉強をしてみてください。
体が屈強な格闘家であったとしても、心が弱ければくじけてしまうのです。
体が病弱であったとしても心が柔軟、すこやか、晴れやか、すずやかであれば、いくら病気であっても大丈夫なのです。
井上義衍老師という方は、自らが病気で亡くなる寸前まで、弟子や周りの人たちにちゃんと悟りを明らかにしたかどうかのご点検を為されながら亡くなられたといいます。
人生における最高の宝は健康よりも精神の「明らかさ」=悟りです。
悟りとは、心の柔軟さ、すこやかさ、はれやか、すずやか、明らかな様子です。
誰にでも、その心に到ることができます。
仏の教えとは、悟りを得た人の教え。
現代では、悟りに至るための方法が各宗派で様々な形で明確になりつつあります。
関心があればぜひ、求めて親子で明らかにしてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ホトケ様の御加護を。。。

想い合う親子を、感じさせて頂きました。

どうぞ、その想いを、大切にお進み下さい。

その想いに間違いはありません。

そして、幸せになって下さい。

お母様の、病気平癒 ゆんさんの幸せを、ホトケ様に 願わせて頂きます。

南無阿弥陀佛

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ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市 の 大法寺 の住職をしております。 大法寺は、代々尼僧寺院であり、苦しんでいる女性を救い 「 おわりはじまりのてら 」 「 尾張の駆け込み寺 」と、呼ばれておりました。 白龍が住んでいると言われている、樹齢650年の大楠の元に、倶利伽羅不動明王の祠が有ります。 その宝剣で、悪い縁を切って下さると言われ、『 悪縁切り供養 』をしています。 病気、人間関係、依存症、自分の中の悪い想いを 切って下さいます。 縁切りの絵馬に、切りたい縁を書き込み、縁切りのお護りを授与しております。 是非、お参りください。 『 命の相談会 』 を、開催しております。 胸の中にあるもの、だれにも言えない事を、全て吐き出しましょう。 一緒に泣きましょう、一緒に叫びましょう、一緒に笑いましょう。 自坊、ショッピングモール、赤十字血液センター、カフェ、放送局、等で 定期的に行なっております。 日程は、ホームページで、確認してください。 ホームページ www.daihouji.org 『 樹木葬 大法寺 』 『 縁切り 大法寺 』 で検索してください。 緊急の場合 苦しかったら、辛かったら、電話ください、 09066179353

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