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不倫夫と相手が許せない

回答数回答 1
有り難し有り難し 29

旦那が不倫を中です。

家庭も子供もほったらかしです。
朝方服だけ着替える状態ですで、家庭を捨てるような事を言います。

これがはじめての不倫で、真面目な人なので気持ちが本気だと思います。

私からしたら、すべてから現実逃避して、家庭や生活から逃げたいように見えてきます。

子供たちも心配し始めていて、このままではいけないとおもっています。

出来たら籍は抜くつもりはありません。
子供たちから父親を取り上げたくないです。

どう対処した方が良いのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いつか帰ってきても一切責めずに赦せるかどうか。

旦那が不倫を中ですか。
不倫でチューなのでしょうか。
あ、すみません。💦アイスブレイクです。
とりあえず、不倫は不倫で事実でしょう。
思い切ったことを言いますが、まず、良し悪しを言ってもダメです。善悪が分かる人なら不倫・浮気しません。まず、その相手の女性よりあなたが旦那に好かれようが嫌われていようが、あなたが人間的に最高に洗練された素晴らしい人間になるよりほかありません。
選ぶのは相手。学生の恋にしても、大人の恋にしても、結婚・不倫であっても所詮は男女の仲。恋に燃えた男の熱は冷めるまであなたは「敵」状態。むしろあなたに不満があったからあてつけでその道に走っちゃったことが事の始まりかも知れません。
まずは、「私はこれやったのに」を捨てて、今の実際と原因に向き合い、超低空飛行で謝る姿勢と、夫を責めない姿勢を貫いてください。どのみち戻ってこんくらいに考えてダメもとで。いざとなったらその女性と夫の家族不倫相手の家族も交えて「対峙」するべきです。ただし、ご主人を責めることだけは×。不利なのです。なぜなら自分を責め続けるおっかない女性の所にはいくら「かえるべき」でも気志團のワンナイトカーニバル位、とにかくもう、あの家には、帰りたくない…のですから。
子供のしつけと同じで、いくら愛しているからといっても、くどくどがみがみ怒ったり、叱り続けたらその子は委縮しちゃって母親によりつかなくなる心理と同じでっせ。
女性は旦那の浮気時にはワールドワイドの大きな度量を持つべきなのです。
ただし今回だけということで、いつかちゃんと私のところに戻ってくるようにしてほしいという姿勢を持ってみてください。この意見は実に過激な道といえば過激な道ですので採用する菓子中はあなたの度量次第ですが、20年後自分たちを振り返ってああ、あったっけ、浮気の7つや8つ(多いっつの)くらい赦せる度量を持つべきであると思います。
そういう「相手」とあなたが結婚しちゃったと考えるよりほかありません。
大切なのはお子さんたち。
全てを話しても、それでも子供たちは迎え入れてくれるでしょう。
何もかも話し合えてこそ真の夫婦真の家族です。
不倫をやめさせたいという願いをすて、真の家族になりたいという気持ちに変えてみてください。それをやり通して、旦那が何も変わらなければその旦那とは「今の時点では」うまくいかないということです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

心の中では、責めずに余裕を持って接しようと思うのですが、なかなか難しく、つい一言、二言と責めてしまいます。

不倫中の二人と同じ土俵に立っても意味がないと思ってはいるのですが、難しいです。
でも、アドバイスを頂いて見返しては、気をつけようと、思うようにしています。

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