後悔を抱いたまま生きること
こんにちは。
以前、「見放した人への公開(正しくは後悔でした)と罪悪感」というタイトルで相談に乗っていただいたモンベルと申します。
その際は本当にありがとうございました。
相談というより、思いを聞いていただきたく、またここに書いています。
冷たくして疎遠になった彼が亡くなり、1年以上経ちました。今日まで、一日たりとも彼を思い出さない日はありません。
後悔と恋しさ、申し訳なさ。一番多いのが、こうしていれば、こう言っていればあの日で終わらなくて良かったのに、という妄想。どれだけ想像し言葉を選んでも、しなかった、言わなかったことなのだと諦める、その繰り返しです。憲章氏の「あなたが結果的にしてしまった事実は消えませんが」という言葉で自分を戒めて、現実に戻っています。
仕事を自分の都合で休むことに罪悪感を抱くようになりました。彼の為には時間を作らなかったのに、という今更おかしな理由です。綺麗な空に気が付いたり風景を見たり、その度に彼と過ごした時間を思い出して、心が絞られるように感じます。そういう景色を共に見て、感動したり喜んだり出来る人でした。
私は、「死」というものに、彼の病気に、あまりにも鈍感で無知だったのだと今は分かります。身内の死を子供の頃に経験して、そのことにも後悔が尽きないのに、また繰り返してしまった。愚かで薄情な人間です。
彼のご仏前にお参りすることは叶いませんので、心で「ありがとう。ごめんなさい。ごめんなさい。」という思いを抱いているだけです。
彼が亡くなってしばらくして、目を閉じるとすごく近くに彼の姿が見えた(頭に浮かんだ)ことがありました。その時の表情が、これまで一度も見たことが無い、全くの無表情でした。怒っているような、軽蔑したような、悲しいような無表情でした。その表情が怖くてすぐに目を開けてしまい、それ以降そういったことはありません。もしかすると、あの表情が彼の最期の私への感情だったのではないかと思っています。
山歩きや旅行の番組、記事を見ることがあまりにも辛くなりました。彼と行った場所などが映ると直視できずに目を逸らします。
ずっとこの先こうやって暮らしていくのかと、そんな気がしています。自業自得です。
相談という形になっておらず、ただ思いをつらつらと書いてしまいました。
お忙しいのに、読んでくださったのなら申し訳ございません。どうかご寛恕ください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
救いは目の前にある
きっちり読ませていただきました^ ^
回答というより感想を書きます。
全てはあなたの思い込みによる、考え方から来た後悔であることに気づいて欲しいと思いました。
あのときこのようにすべきだったのではないか。私は休む資格がないのではないか。あのとき感じたことはこんな方とだったのではないか。全て考えの話です。もしくは過去の記憶。
今の事実に全く触れてない。
てあるからこそ思い悩む。記憶や思いを事実と取り違えて、取り扱うから、救われていないのです。
真実は今しかありません。過去も未来もない。目の前のリアルしかないのです。
他にばかり気をむけていることで、生霊となります👻
リアル至上主義で生きましょう。
目の前のことにのみ救いはあります。悲しみや後悔は、過ぎたことを比較したり評価したりすることで生まれる幻想のようなものです。
自らの考え方に騙され振り回されているということに気付いて欲しいと思いました。
質問者からのお礼
ご回答、ありがとうございました。
書いていただいてから、何度も読んでいます。プリントアウトまでしました。
そのたびに、自分の精神状態のためか、いろいろな思いが交錯します。
そのように割り切れれば、と、痛切に望みます。
今、今しかないですよね。
これからの自分の指針の一つにしたいと思います。
目の前のリアルしかない、目の前のことにのみ救いはある。
この言葉を、心に刻みます。