「正直者が馬鹿をみる」ということについて、どう思いますか
中学の時の社会の担任が、「正直者が馬鹿をみる社会」(は、いけないことだ)と、授業の度に訴えていました。大人になり十数年経た今、それをひしひしと感じています。
大人になれば、時には人間関係を円滑にするための嘘は必要なこともあると思います。常に馬鹿正直になる必要もないとは思っています。
だけれども、どう見たって正していかなければいけない問題点についてさえも、自分を守るために何も言わない、見てみぬふりをする人が大多数なんだと知りました。私はそういうことに黙っていられない性格なので声をあげてしまうのですが、結局周囲の人は何も対応もしてくれなかったり、のらりくらりかわしたり... ずるい人が多いのです。皆自分を守ることが最優先なようです(もちろんそれも間違いではないと思いますが)。言うべきことを言う人よりも、本音を隠して表面的に上手に振る舞う要領のいい人間のほうが幸せそうに見えてしまいます。だったら自分もそうなればいいじゃないかと思いますが、そういう人間にはなりきれません。自分が傲慢で堅すぎるのでしょうか。色々なことに日々「おかしい」と思いながら、精神をすり減らしています。どう気持ちに折り合いをつけていったらいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
純粋という名の無知 正直者という名の世間知らず ではいけない
どこの業界には悪い人間もいます。
騙されちゃいけない。
看板が何であろうがその中にいるのは人間。
どんな聖域にも『人間』は入り込む。
人間が入り込めば必ず、人間の都合が持ち込まれる。
だれかが得をしようとする。
だれかが自分だけいい思いをしようとする。
不正や卑怯なやりかた、純粋なものを損ねるやりかたをする。
正直者が泣きをみる。
では、質問です。
正直者でありさえすれば、詐欺師に騙されてもいいのか。
正直者であれば、国からどんどん税金を持っていかれたり、戦争に駆り出されていいのか。
正直者でありさえすれば、風評被害になるからということで福島の惨状を放っておいていいのか。
それは、ただの無知であったり、安全地帯にとどまっていたい、という姿勢である場合があります。正直者、という事で片づけられるべきことではありません。
人間の世界には本当にこすからい人間がいます。
そういうものに騙されない正直者になる必要があるのです。
結論:詐欺師や不正を働くものに騙される正直ものになってはいけない。
詐欺師を上回るくらい、不正を暴くくらいの智恵ある正直者になりましょう。
柔軟にして正直なる者。
柔和にして質直なる者。
怒りは悩み苦しみの原因。正義でも悪の場合も。
正直であることは善いことです。
しかし、正直でない他人に対して怒ることは悪いことです。
仏教の善悪の基準は、自分と他人の、悩み苦しみを増やす行為が悪、悩み苦しみを減らす行為が善、です。
怒りは悩み苦しみの原因になります。
怒りの反対は慈悲です。
慈悲は、心に怒りがない時にしか現れないそうです。
正直に本音を言える人は強い人かもしれません。(他人を傷つけるような本音は言わない方がよいかもしれませんが。)
正直になれない人は弱い人なのかも。
弱い人に対して、慈悲を向けて、怒りをなくしてください。
それが、あなた自身の心の平安につながるのです。
怒りを伴った正義は、悪となる場合があります。
本当の意味で正直者はいません
誰しも絶対に人には言えないもの、言いたくないものを抱えて生きています。
そういう意味で正直者はいません。
「私は正直者だ」言う人は、空気を読めない人か読まない人かのどちらかです。
どちらも人間社会では不適合者かもしれません。
でもそれでもいいと思います。
おかしいと思うことはおかしいと言えばいいのです。
周りの目を気にして生きていくより、自分らしさを大切にして生きていく方がよっぽど楽しいでしょう。
私はそういう人を魅力的だと思います。
ちなみに私は自分の事を「空気の読めない人間」だと思っています。