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いじめのトラウマ

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小学生のころ、同じ学校や地域の女の子たちに仲間外れにされがちなことがありました。
末っ子か一人っ子ばかりのなかで私だけ、下の子が何かとついてきた(親にセットにされた)せいかも。言いたいことも言えず周囲よりは変に優しすぎたのかも。

当時珍しかった遠方への家族旅行のお土産(親に買ってもらったもの)を、仲間外れの中心メンバーに『くさい』と聞こえるように言われていたこと。地域の集まりのとき、私に同情して大人が多めに飲み物をくれたら、大勢いるときに(私は部屋の隅にいました)悪口を言われ、黙って涙をこらえながら下を向いていたこと。給食のデザートがいじわるされ私だけもらえず、親にいったら、親まで泣きながら「○○くらいいくらでも買ってあげるから」と言われたこと(親が悲しむのが嫌で、もうほとんど親には相談できませんでした)。お昼のパンを買うのに仲間に置いて行かれたときも、親が泣きながら出て行ってほかの親御さんと相談していたようなこと。。

普段は忘れているし、大人になった私は周りからみたら明るくて前向きで。。いじめられっ子、とか暗いというようなイメージではないと思います。

でもやはり覚えています。もうこそこそとみじめに過ごす必要はないのに、自分の存在がいけないことのように生きる必要はないのに。私はいてはいけないの?のような。

今回職場で少しトラブルがあり、その気持ちを思いだしてしまいました。

しかもこんな気持ちは悲しいのに、その後の人生で仲間外れする側に回ってしまったり、今でも嫌いな人に冷たく接してしまったりすることが、私にもあります。
でももしまた自分や大切な人がもし同じ状況になったらと思うと、耐えられません。大人で強い自分もいるのにずるい自分もいるのに、自分の痛みには過敏です。

また、人への気遣いもできるかもしれませんが、それは当時、悪く言われるんじゃないか、とびくびくしながら、人の顔色をうかがいへつらい、自分の存在をなるべく周りに波及させないよう生きていた、その気持ちがあったせいな気もします。

若い頃は見たくない過去には蓋をし、反骨精神のような強さだけでもよかったかも。
でも年経た今、肉親の情愛などが身にしみ、その分、自分の強さが脆く思え、自分のずるさ弱さが嫌で、惨めな過去がつらいときがあります。
限りある人生。気持ちは晴れやかでいたい。どうしたらいいですか。。。?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何ものにも所属しない自分を生きる

ヒドイいじめですねぇ。
のけ者とか、集団で悪く言われることは本当にこの世の地獄です。
私も修行道場でヒドイいじめや体罰を受けました。
悩みの解決のお勧め方法は
「被害者意識に染まらないこと」「その人たちの当時の人間性の低さを憐れむ」ことです。
人間って、誰だってみーんな、未熟で中途半端で発展途上で孤独なのです。
強がってる人間も、本当はよわい。
だから、自分より劣等的立場の存在を作って、安全地帯にとどまろうとする。いじめっ子という奴らや人のことを陰でこそこそ悪く言う人間は、おそれの心理でそういうことを言っていると思います。「所属意識を卒業すればよい」のです。
私は時々、メディアに取り上げていただいたことがありましたが、人間というのはなんだか、うーんなところがあるものでそういう時だけ、急に友達面してコメントやいいね!をくれたりする人がいます。
SNSはそういう人間の心理がよくわかるものです。
ですから、私はそういう人間はあまり相手にしません。
自分が自分をやるだけです。
本当にそれだけでいいのだと思います。
鶴見に日本で一番になったラーメン屋さんがあります。
私はそうなる前から通っていて店長さんによくしていただいたのですが、大将は無欲でお店にトロフィーやら何やらを飾っていません。
「悪く言う人が8割」と教えてくださいました。
脚光を浴びることや、注目されることを卒業されているのです。
有名になればなればで恨まれ、おとなしくしていれば悪く言われ、所属していれば人のことを悪く言う側に回る。そういう負のループを卒業して、とことんソロ活動をする勇気をもってください。
AKBだってセンターになれば、やっかまれたり、恨まれたりの世界です。
本当に人が輝くこととは、自分が自分の中で納得のいく自分になればいいのです。
あなたは両方のつらさを知った。
今度はあなたは両方を救ってあげるべきです。
人の痛みが分かるようになれば人間、人を助けてあげることができるようになるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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