悲しいです、辛いです。
小さい御仏像を注文しました。不謹慎でしょうか、アマゾンでポチっと。巾着、水晶付きの小さい御仏像です。安いですがいつでも持ち歩けて側にいて頂ける様に。でも本心は、私はどうでもいい、主人とワンコ達さえ幸せなら構わないんです。
今日保険を解約して中古物件の手付金を送金してきます。主人も心配しています。本来ならこんな心配はしなくていい筈なんです。お金も心配もしなくて穏やかな定年を迎える筈だったのに。実の二親と妹が送ってきた訴状が原因で穏やかな時は奪われてしまった。主人に申し訳ないです、これは私がどうなっても一生背負っていくのだと思っています。私なんかと結婚しなかったら、今別れてくれたら主人も義理の母や弟達も幸せになるのに。主人の幸せの為に、仏様に自分の死を願うなんて。
100字以内は難しいです。 実の二親と妹とは絶縁しました。 結婚していますが、この様な二親と妹を持ってしまった私が妻で主人に申し訳ないのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「仏様にたのむ」のではなく「仏様をたのむ」
マサマサ様はじめまして、ご相談拝読しました。
三日ほど前からたくさんご相談いただき、その文面からも非常にお辛いご様子が伝わります。
気持ちや状況を整理しながら少しずつ現実を受け入れて参りましょう。
大事なのは「気持ち」=「精神的な面」と「状況」=「現実的に必要な対処」の両方を整えていくということです。
心持ちが変わっても状況が変わらなければまたその状況によって心が乱れるかもしれません。状況が変わっても心持が変わらなければどんな物事も悲観的にしか見れないかもしれません。
ですからここで問答を繰り返すことによってその両方を整える一助となることを念じております。
さて、持ち歩ける仏様をお求めになられたのですね。
しかしその仏様に願うのは「自分の死」だとおっしゃる。う~ん、それでは正直拝む対象は仏像でも水晶でもお守りでも何でも変わりないかもしれません。
仏教で大切なのは
× 仏様「に」頼む
のではなく
〇 仏様「を」頼む
ことです。
すなわち、私の願いを仏様に頼むのでなく、仏様の願いを私が聞くのです。仏様はマサマサ様に死など願いません。
一切の生きとし生けるものは幸せであれ
と願っています。
今、マサマサ様は「主人とワンコ達さえ幸せなら構わないんです。」とおっしゃります。しかし本当にそうでしょうか。別れて楽になるのはご主人やワンちゃんではなくマサマサ様なのではないですか。目の前の苦しみ・罪悪感から逃れられて楽になれるのに…ということではありませんか。そこから逃げられないことを、ご主人やワンちゃんのせいに押し付け…いやそれはできないからこそ自分を責め、死を願うという流れになってはいませんか?
大事なことは仏様の願いを聞くことです。仏様とは仏像のみならず、現実的に私たちに真実を教えてくれるはたらきのことを言います。身近な人を通して仏様がはたらくこともあるのです。
ご主人は別れたいとおっしゃるのですか?マサマサ様といることが幸せだから別れるという選択をしないのではありませんか?
ご主人はマサマサ様とともにこの現実を引き受けようとされているのではないでしょうか?マサマサ様も仏様の願いを聞き、問題を受け入れられず他の声を聞けない自らの姿を照らされてまいりましょう。
自分の姿があきらかになるところに幸せの道が開ける事と思います。
仏様を頼みましょう。
合掌