いい人になりたい
私はいいこと(ふと見つけたゴミを拾う、駅で困った人に声をかけるなど)をするのが好きです。
助けたいという気持ちはもちろんですが、1番は承認欲求と褒められたいや必要にされたいという欲に塗れたドロドロした気持ちです。
徳を積めばいいことがある。必ずなにか困った時に自分に返ってくる。などといった汚い感情もいっぱいです。
これは偽善でしょうか。
ドロドロとした自分の汚い心に溺れていつか地獄に落ちそうで不安です。
どうすれば偽善ではなく心が綺麗な人になれるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
善哉w 善哉w
偽善で上等
無善よりマシ‼︎
1分坐れば1分の仏、
1日坐れば1日の仏、
一生坐れば本物だ。
と、永平寺第78代貫主 宮崎奕保禅師(享年108才)が仰っていたそうな。
最初は偽善でもいいや。
ぜひ続けて下さいね。最後までやり通せばホンモノになりますから。
自分の腹の中を見て、こんなことじゃいかんなぁと思える。つまり、あなたの善行は、他人を助けるだけではなく、自浄作用が働いているという事ではないですか?
善哉 善哉 拝
形から入るというのは、大事なことです。
ご相談読ませていただきました。
意識して善行を積んでらっしゃる、大変素晴らしいことです。
初めは偽善のようであっても構いません。むしろ、偽善ではないかと自らを疑う心は、「私はいいことをしているんだ!」なんで驕るよりもよっぽど謙虚じゃありませんか。
お坊さんだって、最初は自分自身の心が真に清らかであるかどうかということはさておいて、真似事から入るんです。
身体と言葉と意識を仏教では三業といい、この三業で悪いことをしてしまうので、それを反省し、良い方に向けていくというのが一つの目標です。
そして、良い方に進んでいく目標が仏さまであるわけです。
まだ自分の心ができあがっていなくても、三業でもって仏さまのように振る舞うんですよ。
座禅をしたり、生活の中で戒律を保ったりというのは仏さまの身の行いを真似し。
お経や真言を唱え、人を傷つける言葉を用いないのは仏さまの口の行いを真似し。
教儀を学び、誰かのために何かをしようという思いで仏さまの意の行いを真似し。
そうして生活の中で修業をしていくんです。
小さい子供が野球選手に憧れて素振りやキャッチボールをしたり、アイドルに憧れて歌ったり踊ったり、最初はどんなに拙くても、どんなに軽い気持ちでやっていたとしても、それはどこか繋がっている道です。
いい人になろうというのも、初めから完璧にいい人でなくていいんです。坊さんだって、初めからそんな綺麗な心の人がいるかどうかなんてわかったもんじゃないですよ。
短い問答だけでとぅー子さんの人となりが全部わかるわけじゃありませんから、あなたは偽善者じゃないですよ、なんて断言は私からはできません。
でも少なくともとぅー子さんの心が汚いだなんて思いませんし、あたなの行いを見ている人はどこかにいることでしょう。
あなた自身も、自分がそのとき何を考えていたかはともかく、好きでいいことをしているというのは自信を持っていいことです。
続けてください。
今それで不安を抱いても、ちゃんとあなたの自然な生き方として身につくようになりますよ。
偽善だったら綺麗な心じゃない、ということじゃないです。綺麗であろうとしているなら、たとえ今は偽善に見えていても、それは美しい心だと思います。
とぅー子さんの今後に幸あるよう、お祈りいたします。