例えば、神社にお参りした後お寺にお参りするなど・・・・・
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
明治時代までは、「神仏混交」「神仏習合」などといって、神様も仏様も一緒だったので問題ないですよ。
拝読させて頂きました。 大丈夫です。問題ありません。
ウチのお寺も三門をくぐってすぐ右側にお宮があります。 ですから私は毎日本堂でお勤めして、お宮にお参りしています。
ですから仲良しです。 どうぞしっかりと仏様や神様に真心込めてお参りなさって下さいね。
合掌
食事ではどうしても動物のものを多く食べます。 焼肉や刺身、普段でもソーセージや焼き魚、豚バラetc… 最近食事の際「いただきます」という気持ちでボソボソと南無大師遍照金剛とお唱えして食べていますが、 焼肉等に行くとどうしても動物をいっぱい食べてしまうので、美味しくて幸せな反面、申し訳ないように感じます。 私が食べないところで世の中では多くの動物が食品になっているので、ヴィーガン並に食べない訳では無いですが、 私が食べる物は殺生された動物達なので、 結局縁的には私も殺生に値します。 食べる時に何かお唱えした方が良い言葉などありますか? 南無大師遍照金剛は違うのかな? と思ったり、、 神仏、そして動物に対して申し訳ない。という気持ちと有難く頂きます。 という気持ちを伝える為に…… お坊様方が焼肉や動物を食べる際、どのように感じて食べていますか? また幸せな反面罪悪感があるこの気持ちをどのように扱えばよいでしょうか。
いつもお世話になっております。最近気が付きました。 私は、色々な人に「私は仏教徒です」と言っていますが、 仏教徒らしい事を何一つしていない事に。 そして、せめて、十善戒くらいは守ろうと思い立ちました。 そこで疑問が生じました。 「何すればいいんだ…?」 生き物を殺さない(殺虫殺鼠より防虫防鼠)、物を盗まない。 悪口や乱暴な言葉を言わない。偽情報に惑わされず、正しい リテラシーを持つ。キレない(これが私の最難関)。他人も自分も 守るため、正しい性教育知識と、性処理方法を身につける。ケチらず 困って頑張ってる人に施す。嘘つかない。 ここまでは分かったのですが、「不両舌」「不綺語」の 解釈が難しいです。 ご教授のほど、よろしくお願いします。
タイトルにあるようにお坊さん達は精神的に苦しい時はどうやって対処してますか? 私はいま精神的にかなり苦しいです。 自殺という考えもチラつきます… 何をやっても上手くいかない、、何をやっても楽しくない、、心療内科で貰う薬は増える一方、、仕事は辛い、、 生きてても辛い事がありすぎます、、 こんな時お坊さん達はどうしますか??
YouTubeのオススメに「良い人・優しい人が損する理由はこれです」みたいな動画があったので、とりあえず観てみました。その動画には「ブッダの教え」というサブタイトルが付けられていました。 優しさと思いやりが、いいように利用され苦しむ主人公の話でした。 その後、主人公が見つけた答えは、 ①「自己尊重と他者への尊重のバランス(自分自身と他人の間に健全な境界線を引く)」 ②「自分の気持ちや考えを尊重してもらえない関係は健康的ではないと理解しそのような関係とは距離を置く」 ③「支援や協力が真に価値を持つ場合にのみそれらを提供するようにする」 というものでした。 私にはとても良い話に感じましたが「我を無くす」から遠のいてるようにも見えて、この話をどこまで鵜呑みにしていいのか迷っています。 「ブッダの教え」とありますが、この動画に出てくる登場人物名や逸話をネットで検索してもそれらしいソースが見つかりませんでした。 (生きにくさを抱えた現代人向けの創作?) ここでお坊様方にお聞きしたいのは①②③は仏教的に見て、実行しても大丈夫な内容でしょうか。 またお坊様方の考えなどもお聞かせ頂けたらと思います。 よろしくお願いします。 補足です。 私は優しさ・善良さとは程遠い人間ですが、周りではよく聞く話だったので、このテーマに関心がありました。
海外在住者です。この4月に数年ぶりに日本へ旅行に出かけます。 1. 仏様をお迎えし、できることならば密教寺で開眼していただきたいと思うのですが、そういったことはお寺さんに縁がない人でもお願いできるものでしょうか。 2. お寺さんに開眼をお願いする場合の費用はいかほどでしょうか。 教えていただけると大変ありがたく、よろしくお願いします。
初めて質問させていただきます。 日蓮宗の本尊形式についての質問です。 日蓮宗の本尊では一塔両尊(多宝塔の隣に釈迦如来と多宝如来がいる)と言われる形式に四菩薩や四天が加わり、その前に日蓮さんが配されていることが多く、また地域によって曼荼羅の位置が異なったり、曼荼羅の前に地域で信仰されている諸天が配されている場合が見受けられます。 ところが先日京都で拝観させていただいたお寺では、一塔両尊の前に釈迦如来が配されている(つまり釈迦如来の前に釈迦如来がいる)本尊を見かけました。 これは本仏に対する応身を強調するためなのか、それとも日蓮さんに法華経を伝える迹門の釈迦如来を重視する意図なのでしょうか。 そのお寺では聞きそびれてしまったので、もしご存じの方がいましたら考えられることでも構いませんのでご教示頂けると助かります。 以上、よろしくお願いいたします。
最近たまたま儒教について調べました。 儒教には先祖が自分を助けてくれるから敬い大事にするという教えがあるそうです。 仏教でもお葬式などの際にそのような話をされたような記憶が薄らあるのですが、これはたまたま釈迦の考えと孔子の考えに共通点があったということなんでしょうか? また輪廻転生するのであれば先祖は既に別の生き物としての人生を歩んでいるはずで、助けてくれる先祖と輪廻転生した先祖で2つに別れると言うことなんでしょうか? 先祖が助けてくれる ということと輪廻転生自体が相反することを言ってるいるように感じました。 仏教を否定している訳ではなく単純な疑問なのです。 時代によって少しずつアップデートされたということなのかもしれませんが、この点を現在のお坊さんはどのように解釈しているのでしょうか?
皆様いつもお世話になっております。 この度は僧侶の方々に対する素朴な疑問をお書きします。 「仏様の前では皆平等」という言葉がありますが、お坊さんも衆生に平等に接しておられるのでしょうか?答えにくいかもしれませんが正直嫌だな、とかこの人はすごく大事、という方はいらっしゃいませんか? 修行を重ねたら皆に平等に接することができるのですか? ご回答をお待ちしております。
よろしくお願いします。 仏教で「正しい教え」という言葉をよく目にしますが、正しい教えと正しくない教えはどう違うのでしょうか? ある僧侶の方が新興宗教や自己啓発に批判的なコメントをされているのを見て、自分にもそれが当てはまるのかなと不安になりまして。 というのも、私は新興宗教ではないのですが、50歳を過ぎてから仏教の教えにふれて以来やたらポジティブになりまして(ポジティブなのは夫の存在があるからという事も理解しています)、仏教の教えを調べたり、実践して気付きを得られるのがとても楽しいのです。 この楽しさや気付きを私は勝手に「仏様からのご褒美」だと受け止めていたのですが、こういうのって仏教本来の教えから見て大丈夫なんでしょうか。 念持仏を開眼して頂いたお寺の護摩行にたまに参加して皆さんと一緒に読経したりご真言をお唱えするのがとても楽しいです。声を出すのでスッキリします。 良いことばかり過ぎて、ひょっとしたら私は仏教の教えを誤解しつつあるのではと不安になってきました。 ※正しい教えをもっと学びたいので将来は灌頂も考えています。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
躁と鬱と私と共に生きる西條るじん僧侶
和歌山の駆け込み寺・中田三恵住職
「心の厄がはがれていく本」をご紹介!
教えと名言・逸話
仏教の根幹となる教え
仏教が説く8つの苦とは