現在は末法の世?回答受付中
お世話になっています。今現在、世界情勢、環境的、経済的その他、何をとっても明るい要素がありません。いつ戦争が起こっても不思議ではない状況です。ノストラダムスの予言の1999年の時より現在の方がよっぽど終末感があります。仏教には末法思想があると聞きました。ずばり今現在は、末法の世なのでしょうか?また仏教で語り継がれている末法の世とは具体的にどんな状態なのでしょうか?回答おねがいいたします。
お坊さんからの回答 3件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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末法はこの世の滅亡ではありません
「末」という字を見ると、終末、末期といった言葉を連想して、この世(人間の世界)が滅亡してしまうようなイメージを持ちますが、仏教でいわれる「末法」は人間の世界の滅亡を指すものではありません。
お釈迦様が入滅された後、教えとその実践が正しく伝えられ解脱を得る人が現われる時期を「正法」、やがて教えが衰えて解脱を得る人が現われ難くなる期間を「像法」、教えそのものが形骸化し解脱を得ることが不可能になる期間を「末法」と呼びます。
「末法」ではたしかに人間のエゴや欲望の暴走に歯止めをかけることがより難しくなるでしょうが、そうではあっても人間が生存し生活するこの世界が滅びでしまうわけではありません。
今は末法なのか、いつから末法なのか、ということについては色々な解釈がありますが、日本では一般的に1050年頃から末法の時期に入ったとされています。
曹洞宗の宗祖、道元禅師は「末法と思って気が済むなら思ってもいいが、末法だからお釈迦様の教えを実践できないと決めつけるのはナンセンスだ。いつの時代でも精進する人と精進し難い人がいるというだけだ」とおっしゃっています。
大丈夫。
ご質問ありがとうございます。
一つお伝えしたいのが、
末法とは“世界の終わり”を意味する言葉ではないということです。
仏教には、時代を三つに分けて捉える考え方があります。
これは 大集経 などに見られる、仏法が次第に衰えていくという思想をもとに、後に整理されたものです。
正法:教えも修行も成り立つ時代
像法:形は残るが、実践が難しくなる時代
末法:教えはあるが、悟りに至ることが難しくなる時代
ここで大切なのは、
末法=争いや災いが増える時代ではなく、「人が教えを実践しにくくなる時代」
という点です。
では今が末法かという点ですが、
日本では古くから、
源信 や親鸞 の時代より、
すでに末法の世に入ったと受け止められているようです。
つまり、
今が特別に終末的なのではなく、
すでにそのような時代の中にあると考えられてきたということです。
それではなぜ、現代はより終末のように感じるのでしょうか。
一つには、私たちが受け取る「情報の量と速さ」があります。
昔であれば知ることのなかった、
世界中の戦争や不安な出来事が、日々私たちの目に入ってきます。
さらに人はもともと、
悪い出来事に強く反応する性質(ネガティビティ・バイアス)を持っています。
そのため、実際の危険以上に、不安を強く感じやすい状況にあるとも言えますし、メディアも、そういった情報を流すことが多いですよね。
仏教の教えから見ると、
こうした時代の問題は、それをどう「受け取る心」かにあります。
欲、比較、執着、不安。
これらは仏教で「煩悩」と呼ばれます。
そして、 こうした煩悩が強く働く状態こそが、末法の特徴
とも言えるかもしれません。
そうした中で、仏教は、「時代がどうなるか」を恐れるよりも、
「その環境の中で自分の心をどう整えるか」を大切にしてきました。
長々と申しましたが、末法とは「終わりの時代」ではなく、
「人の在り方が試される時代」なのではと思います。
不安はあってもいい。
揺れることがあってもいい。
その中で、
少しずつでも心を整えながら、
歩いていけたらいいのかもしれませんね。
いつでも末法正法。どこでも悪魔城どこでも仏の世界と成り得る。
鬼を描き仏を描くも同じ筆。
ものをみて、ことを見てそこに邪を見るか、魔を見るか、吉と見るか、今日と見るか、吉祥と見るか、真を見るか。
問われるのは各自の人の心でござる。
あなたが今日の天気を見てどう思われるか。
今日の世界情勢を見てどう思われるか。
そこに末法、地獄、天国、浄土、涅槃の世界が生ずるものです。
仏ヅラして世界の非道なことに涼しい顔しているだけでは、チベットのように隣国に滅ぼされましょう。
祈るだけでも悪事をなすものはこちらに危害を加えてくる現実もありましょう。
だからこそ、末法マインドで蜘蛛の巣がはったまま、カビの生えたままの経典の生兵法では、この狂った世の中できちんとした進むべき方向性を見い出すことはできません。
このhasunohaだって登録僧侶は300人を超えても、事実上の参加者が減ればそれは末法。救いを差し伸べる手、活動、アクションが無ければお寺もガラン堂となる。
だからこそ人は、このいつでもどこでも末法、正法となり、いつでもどこでも地獄となり、天堂、彼岸、浄土、仏の世界と成り得るこの世界、今ここおのれを正し、心をおさめて真実に目を向ける必要があるのです。
真実を見る眼とは、自分の思いや妄想に縛られなくなることです。
人の世界はいつでも誰かが救いを必要としているものです。
できることでいいのです。
あなたが目の前の末法、地獄、困難、困窮をより良くしようと志せば、あなたの中で菩提心が起こる。世の中をよくしようという仏の心が生まれる。
神も仏もおらんとか、神や仏を他人事、よそ事にしているものは永遠に、人任せだから内なる神仏をうやまう心が生まれないから、末法がいたるところに顔を出す。
この今出会っている、今という目の前の世界は、誰にとってもいつでも、どこでも、地獄と成り得る可能性があり、楽園、浄土、安楽と成り得る可能性を秘めているのです。
アタマで決めつけた末法だ地獄だという人の決めたものではなく、そこで誰が何を必要としているのか、そこに耳を傾け、心を注いで救いの行いをなすのです。
そうすると、あなたのまわりには末法は無くなり、生きた浄土、正法が沸き起こるのです。
末法や悪魔城に関してはこちらをご覧頂きたい。当山のページです。
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