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無になりたいです

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瞑想?というべきかわかりませんが、無になりたく練習してますが、なかなか上手くいきません。
座禅も同じようなものかと思いますが、何も考えず、感じず、何も騒音が耳に入ってこないような無の状態(表現がおかしかったらすみません)はどのように練習すべきでしょうか?
今は肩の力を抜き、良いこと悪いこと全ては無の中に帰るとイメージしながらしております。
どうしても無の状態になりたく、アドバイスがあればぜひ教えてください!
練習中に関係ないイメージが勝手に浮かんだり、いい感じになれても持続できなかったりです‥‥。
どうしても無の状態になれるようになりたいので、おすすめ練習方法をアドバイスいただけませんでしょうあ?
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まことの無には無ということも無かりけり

「無」ということを今「立てて」いますでしょう。
無を立てているとは、狙いをつけること。無ということを想定して、自分の想定した無に向かおうとしていることです。
それはよーく冷静にお考え頂きますと「無に狙いをつけた有」なのです。
アクションがそこにある。
無という理屈を思い浮かべたのです。
だから、むしろ無とは真逆のことが「無を狙った時点で生じてしまっている」のです。
無とは空っぽじゃありません。
能動的な働きかけのないことです。
人為的な働きかけが脳内から無くなるから「無」。
わたくし意識だけがなくった状態です。
思いをSNSやニコニコ動画のコメントに喩えますと、コメントが一切生じていない状態です。
事実に手を付けていないスタンス。
今、ここにおいて出会っていることに対してアクティブ(能動的)な動きやアクションが一切ないことです。超最高の心穏やかな人格者・人徳者が監督になったようなものです。
どんな騒ぎも釈迦の掌の上。
やることなすことが生じないから、静寂な心です。
川口師もおっしゃられている通り、技術的な無、人為的な無は実に虚無的なものです。無自慢にしかなりません。
ちまたではやりのマインドフルネスも自我の延長線上でやったところで我欲の埋め合わせにしかなりません。無も同じことです。
なにゆえに無になる必要性があるのかが大事であると思います。
坐禅会で禅のエッセンスを学んでも自我の為にそれを使うことは、アインシュタインのせっかくの発明を戦争、人を殺す兵器として使うようなものです。
いくら無になっても、自分自分した自分ラブが残っている内はお釈迦さまや祖師方の言われるところの無とは小尾なるアドレスで無を実現したにすぎません。
無をせめて法薬としてマスターして、人の心をより良き心へ導く善玉菌として働かせるという、本来の宗教的なものとして行ずることが大事であると思います。

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仏教は、「無」を目指すものではない

るる様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

どこか「無」という実体が、何かあるかのようにとらわれてしまわれているのかもしれません。

仏教的には、「非有非無」として、「有る」も「無い」も実体としては否定されるものとなります。

では、何も無いのか、と申しましたらそうではなく、確かに、拙生も、るる様も今、このように存在しています。

ただ、確かに存在はしてますが、そのありようは、実体としてではなく、他に依存して、簡単には、色々な因縁(原因と条件)に依って存在できているものであり、そのどの要素も細かく分析していったとしても、「これが自分だ」といえるような何かがあるわけではないのであります。

要約すると、「全ては、縁起し空である」ということになります。

まあ、難しい議論は脇にどけておくとしまして、仏教は、「無」を目指すものではなく、「悟り」を目指すものであります。

「悟り」へと至るために、「こころ」・「言動」をどう調えていくべきであるのかのために、瞑想・坐禅などの禅定もその一つとしてあるのでございます。

仏教に照らし合わせて、今の自分の「こころ」のありようをしっかりと観察し、そして、どのように仏教を実践していくことで、悟りへと向かっていくべきであるのか、「何も考えない」、「ただ心を落ち着ける」とかではなくて、できれば、悟りへ向かうために何をすべきかについて、仏教について考えながら瞑想や坐禅をされることをお勧め申し上げたいと存じます。

川口英俊 合掌

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Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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生きている限り脳の動きを停止させる事は不可能です。曹洞宗の坐禅は、浮かんできたものにつきあわず、受け流すようにと教えられます。坐禅会に参加してみる事をオススメします。

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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瞑想する名僧は迷走せず(笑)

瞑想修行、大変結構だと思います。でも、

こういう状態にならなきゃダメだ!!
と思って取り組んでいる限り、たぶん死ぬまでやっても無理かなぁ…。

とりあえず、暴れるお猿さんやお馬さんを追っかけるのはやめなはれ。

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【公認心理師】 【レンタルお坊さん】活動中。 とりあえず何でも相談して...
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自我消滅の願いは、発心の動機の基本ですね^^

念仏三昧に入ると身体感覚が希薄になっていき、やがて自他相対や個の存在を超えた”空の体感”が生まれます。(適切な言葉がないので”体感”という表現になってしまいますが)
空性の体感は、実在の生ける如来の融合を受ける念仏三昧の階梯の入り口に過ぎません。

あなたの求める”無”がどのようなものなのかはわからないのですが、”自我を消滅させたい!” という願いは、いずれの行法を選択されるにせよ、発心の動機の基本だと思いましたので、一報させて頂きました。

念佛三昧についてはメソッドがいろいろあり、またとても書いて済むような内容でもないので割愛します。(あるいはその他にも無になる方法論はあるのかも知れませんし)
いずれ、どこかでご縁がありましたら続きを、、、。

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遠藤喨及
僕はウイキペディアでは以下のように紹介されています。 「日本、アメリカ、...
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質問者からのお礼

お二人もお返事をありがとうございます。
受け流す、やってみようと思います!
座禅会も参加してみたいです。
そうしよう!と思わなけばいいのでしょうか。
どちらにしても難しいのですね^_^;

川口さま
お返事をありがとうございます!
悟りは迷いを無くし心理に辿り着くというのが一般的な解釈のようですが、あってますでしょうか?
私が目指したいのはまさにその辺だと思うのですが、悟りを目指すには、滝にでも打たれればいいのかもしれませんが、そんな簡単にできる状況でもなく、座禅が出来るところもどうも近場にはなさそうなので、ここはお経の暗記がいいのかな、と思いましたが、そこからでもよろしいでしょうか。
ただ座禅はお経唱えないようですし、修行僧でもない自分には何が出来るのか考えております。

そして仏様は大好きなのですが、日本の神様が神社や自然の中にいらっしゃるのに対して、仏様はどちらにいらっしゃるのかなと素朴な疑問がわきました。
悟りを目指すことは仏様に近づくことを目指すことでもあると思ってますが、お坊さんはどんな感覚で近づいていくことを実感されてるのか気になってしまいました。

私なぞが悟りへ至ることが、できるわけがないのは百も承知ですが、目指すことは私でも出来ると頑張りたいと思います(^o^)

丹下さま
お返事をありがとうございます!
「無に狙いをつけた有」と伺って、まさにそれで上手くいかないのだと思います。
自分はただの人間でも無?(皆様の回答から無という呼び方が違う気がしてきました)を得たいと思ったわけですが、目指す場所の想定が有になってれば、得られませんよね。
私が目指したい理由は、迷いだらけの自分におさらばして、自分に自信をつけたいからで、まずは自分がよくならないと、私自身も家族も友達も幸せに出来ないと思います。
これは我欲になってしまうのでしょうか?
静寂な心に近づきたいです!

遠藤さま
お返事ありがとうございます!
私の無とは、皆様のお返事から、迷いだらけの自分からの開放を指すのだと思ってきました。
空性の体感でも、まだ入り口なのですね。その側にすらいけない未熟な私です。
自我の消滅が出来れば、心に迷いなく、目指す自分になれると思うのですが、少しも近づけません。
修行僧のようなことは出来ませんが、自分に出来る在り方を探さないといけませんね。

「世の中・自然」問答一覧

逆エンパス

閲覧いただきありがとうございます。 僧侶の皆様の見解を知りたいと思い相談させていただきます。 世の中には逆エンパスなる性質を持った人がいると最近学びました。 逆エンパスの特徴の一つとして ①知的障がいを持った人。介護者が必要なぐらいの障がいがある人。 ②社会的にきちんとしていない人(一般的に言われる変な人・異常者)正義感や純粋なエネルギーを浴びると居心地が悪くなり怒って反発したくなるようなタイプの人。反社会的な人。 (出典:阿倍野まことカウンセリングルーム) ①②に絡まれやすいという特徴があります。 私自身、上記のような人に遭遇しやすいと感じています。 外出すれば、3回に1回は見ず知らずの人に絡まれます。 具体例を上げますと、家族とスーパーで買い物中 「これ安いね。買おうか。」などと話していると、いきなり見ず知らずの人が近寄ってきて「うっせーな!」と去りながら捨て台詞を吐いて行かれることが良くあります。 その際、決して大きな声で騒いで話しているわけではありません。むしろ、こういった事がよく起こるので声量はかなり小さくしています。 絡んでくる人の特徴は •母娘。娘が突っかかてくる。娘は母親にピッタリくっついている。 •母親の方は我関せず。知らないふり。 •娘の年齢層は10代〜30代と幅広い。 •見た目は異常者に見えない。 このような感じです。 対処法としては 逃げる。気づかないふりをする。が 取り入れやすい方法のようです。 実践している最中ですが、 余りに酷いとつい睨みつけてしまいます。 頭では 「こいつは異常者」「私が悪いわけじゃない」と言い聞かせつつも感情が落ち着きません。 正直なところ、外出も怖くなってしまいます。医療機関などには相談しています。 家族は私以外鈍感で、私が言うまで気付かなかったり こういった事を経験したことがなく理解者はいません。 僧侶の皆様の中で似たような経験をされた方はいらっしゃいますでしょうか。 また、この逆エンパスについて見解を伺いたいです。 長文失礼しました。よろしくお願いいたします。

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夜になると死にたくなる

毎日仕事、子育て、家事をこなし、特に不満もなく過ごしている日々ですが、ここ最近家事が一段落する時間や寝る直前に死にたいと思うようになりました。 正確に言えば、スマホを置いて財布だけ持って失踪したいというような、寝る直前はこのまま目が覚めないで死んでしまいたいというような感じです。 理由がわかりません。毎日不満もなく、自分的には充実しているのに、フッと感じる死にたいという感覚が不気味です。 病んでるのではないか、生理前でホルモンバランスが崩れているのではないか等考えてみたのですが、生理周期にも関係なく、そもそも病む原因もなさそうなのです。 そのうち本当に前触れもなく失踪しそうな気がしています。近付いている気がするのです。 その先には死しかないことも感覚であります。 現状に何も思い当たることがないのに、夜になると頭の中がそのことばかりになります。 旦那や友人には言えません。言われても困ると思います。忙しい人達に自分も理由が分からないことを相談し、迷惑をかけたくありません。 だけど、失踪や死に近付いているという感覚が日々強くなっていて、どうすればよいのか分かりません。

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