無になりたいです
瞑想?というべきかわかりませんが、無になりたく練習してますが、なかなか上手くいきません。
座禅も同じようなものかと思いますが、何も考えず、感じず、何も騒音が耳に入ってこないような無の状態(表現がおかしかったらすみません)はどのように練習すべきでしょうか?
今は肩の力を抜き、良いこと悪いこと全ては無の中に帰るとイメージしながらしております。
どうしても無の状態になりたく、アドバイスがあればぜひ教えてください!
練習中に関係ないイメージが勝手に浮かんだり、いい感じになれても持続できなかったりです‥‥。
どうしても無の状態になれるようになりたいので、おすすめ練習方法をアドバイスいただけませんでしょうあ?
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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まことの無には無ということも無かりけり
「無」ということを今「立てて」いますでしょう。
無を立てているとは、狙いをつけること。無ということを想定して、自分の想定した無に向かおうとしていることです。
それはよーく冷静にお考え頂きますと「無に狙いをつけた有」なのです。
アクションがそこにある。
無という理屈を思い浮かべたのです。
だから、むしろ無とは真逆のことが「無を狙った時点で生じてしまっている」のです。
無とは空っぽじゃありません。
能動的な働きかけのないことです。
人為的な働きかけが脳内から無くなるから「無」。
わたくし意識だけがなくった状態です。
思いをSNSやニコニコ動画のコメントに喩えますと、コメントが一切生じていない状態です。
事実に手を付けていないスタンス。
今、ここにおいて出会っていることに対してアクティブ(能動的)な動きやアクションが一切ないことです。超最高の心穏やかな人格者・人徳者が監督になったようなものです。
どんな騒ぎも釈迦の掌の上。
やることなすことが生じないから、静寂な心です。
川口師もおっしゃられている通り、技術的な無、人為的な無は実に虚無的なものです。無自慢にしかなりません。
ちまたではやりのマインドフルネスも自我の延長線上でやったところで我欲の埋め合わせにしかなりません。無も同じことです。
なにゆえに無になる必要性があるのかが大事であると思います。
坐禅会で禅のエッセンスを学んでも自我の為にそれを使うことは、アインシュタインのせっかくの発明を戦争、人を殺す兵器として使うようなものです。
いくら無になっても、自分自分した自分ラブが残っている内はお釈迦さまや祖師方の言われるところの無とは小尾なるアドレスで無を実現したにすぎません。
無をせめて法薬としてマスターして、人の心をより良き心へ導く善玉菌として働かせるという、本来の宗教的なものとして行ずることが大事であると思います。
仏教は、「無」を目指すものではない
るる様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
どこか「無」という実体が、何かあるかのようにとらわれてしまわれているのかもしれません。
仏教的には、「非有非無」として、「有る」も「無い」も実体としては否定されるものとなります。
では、何も無いのか、と申しましたらそうではなく、確かに、拙生も、るる様も今、このように存在しています。
ただ、確かに存在はしてますが、そのありようは、実体としてではなく、他に依存して、簡単には、色々な因縁(原因と条件)に依って存在できているものであり、そのどの要素も細かく分析していったとしても、「これが自分だ」といえるような何かがあるわけではないのであります。
要約すると、「全ては、縁起し空である」ということになります。
まあ、難しい議論は脇にどけておくとしまして、仏教は、「無」を目指すものではなく、「悟り」を目指すものであります。
「悟り」へと至るために、「こころ」・「言動」をどう調えていくべきであるのかのために、瞑想・坐禅などの禅定もその一つとしてあるのでございます。
仏教に照らし合わせて、今の自分の「こころ」のありようをしっかりと観察し、そして、どのように仏教を実践していくことで、悟りへと向かっていくべきであるのか、「何も考えない」、「ただ心を落ち着ける」とかではなくて、できれば、悟りへ向かうために何をすべきかについて、仏教について考えながら瞑想や坐禅をされることをお勧め申し上げたいと存じます。
川口英俊 合掌
生きている限り脳の動きを停止させる事は不可能です。曹洞宗の坐禅は、浮かんできたものにつきあわず、受け流すようにと教えられます。坐禅会に参加してみる事をオススメします。
瞑想する名僧は迷走せず(笑)
瞑想修行、大変結構だと思います。でも、
こういう状態にならなきゃダメだ!!
と思って取り組んでいる限り、たぶん死ぬまでやっても無理かなぁ…。
とりあえず、暴れるお猿さんやお馬さんを追っかけるのはやめなはれ。
自我消滅の願いは、発心の動機の基本ですね^^
念仏三昧に入ると身体感覚が希薄になっていき、やがて自他相対や個の存在を超えた”空の体感”が生まれます。(適切な言葉がないので”体感”という表現になってしまいますが)
空性の体感は、実在の生ける如来の融合を受ける念仏三昧の階梯の入り口に過ぎません。
あなたの求める”無”がどのようなものなのかはわからないのですが、”自我を消滅させたい!” という願いは、いずれの行法を選択されるにせよ、発心の動機の基本だと思いましたので、一報させて頂きました。
念佛三昧についてはメソッドがいろいろあり、またとても書いて済むような内容でもないので割愛します。(あるいはその他にも無になる方法論はあるのかも知れませんし)
いずれ、どこかでご縁がありましたら続きを、、、。
質問者からのお礼
お二人もお返事をありがとうございます。
受け流す、やってみようと思います!
座禅会も参加してみたいです。
そうしよう!と思わなけばいいのでしょうか。
どちらにしても難しいのですね^_^;
川口さま
お返事をありがとうございます!
悟りは迷いを無くし心理に辿り着くというのが一般的な解釈のようですが、あってますでしょうか?
私が目指したいのはまさにその辺だと思うのですが、悟りを目指すには、滝にでも打たれればいいのかもしれませんが、そんな簡単にできる状況でもなく、座禅が出来るところもどうも近場にはなさそうなので、ここはお経の暗記がいいのかな、と思いましたが、そこからでもよろしいでしょうか。
ただ座禅はお経唱えないようですし、修行僧でもない自分には何が出来るのか考えております。
そして仏様は大好きなのですが、日本の神様が神社や自然の中にいらっしゃるのに対して、仏様はどちらにいらっしゃるのかなと素朴な疑問がわきました。
悟りを目指すことは仏様に近づくことを目指すことでもあると思ってますが、お坊さんはどんな感覚で近づいていくことを実感されてるのか気になってしまいました。
私なぞが悟りへ至ることが、できるわけがないのは百も承知ですが、目指すことは私でも出来ると頑張りたいと思います(^o^)
丹下さま
お返事をありがとうございます!
「無に狙いをつけた有」と伺って、まさにそれで上手くいかないのだと思います。
自分はただの人間でも無?(皆様の回答から無という呼び方が違う気がしてきました)を得たいと思ったわけですが、目指す場所の想定が有になってれば、得られませんよね。
私が目指したい理由は、迷いだらけの自分におさらばして、自分に自信をつけたいからで、まずは自分がよくならないと、私自身も家族も友達も幸せに出来ないと思います。
これは我欲になってしまうのでしょうか?
静寂な心に近づきたいです!
遠藤さま
お返事ありがとうございます!
私の無とは、皆様のお返事から、迷いだらけの自分からの開放を指すのだと思ってきました。
空性の体感でも、まだ入り口なのですね。その側にすらいけない未熟な私です。
自我の消滅が出来れば、心に迷いなく、目指す自分になれると思うのですが、少しも近づけません。
修行僧のようなことは出来ませんが、自分に出来る在り方を探さないといけませんね。