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輝きたい。

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有り難し有り難し 10

とにかく、やる気が出ません。

仕事は毎朝のトレーニングかから始まり
演奏活動や練習に明け暮れる日々で
休みも月4日です。
今年すごく苦しい年で
今の仕事は金銭的に見苦しく、
この先どうなるのか不安で
副業に手を出してしまい、
多額の借金と、仲間への裏切り行為に自分自身が傷つき、そして恋人とも離れてしまい、全ての歯車が止まってしまいました。

周りに気を使って明るく取り繕っていますが、
心の中では自分の声と矛盾した生活か苦しく、
今にも飛び出して自分の心の声に素直になる旅に出たい気分です。

でも自分が責任あるポジションにいるため、
足を止めることができなくて
部屋に帰れば布団に倒れるひびで、
洗濯物やゴミなどの私生活が乱れて
でも、やる気がわきません。

太鼓は大好きなんです。
昔からやっていて
楽しく叩けば目の前の人は喜んでくれて
一生懸命叩けば感動してくれる。
そんな楽器に出会えて、プロに行くときも
たくさんの人に支えられ今の自分がある事
そこへの感謝はしきれません。
昔は不良だったので迷惑ばかりかけて
でも今は太鼓をたたく事で人々に
恩返しができています。

今のチームにいるのがしんどい時期なのか、
もうやめて1人でやって行くのか、
今年は自分の力を試されてるように感じます。
でも今はやる気が出ず、何から手を付けて良いかもわからず、薪のない状態で炎を立てようと毎日頑張っています。

まだまだ自分を磨いて高みを目指したい思いと
今の現状のギャップが苦しいのか
何が僕を苦しめているのか、
わかりませんが
もっと自分らしく輝いていたいです。

どうか、アドバイスをよろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

❝超師❞の器となれ

輝くためには全身に金箔、金粉を塗りたくってスポットライトを当てることがよいでしょう。
夜の場合は蛍光塗料を…え?そっちじゃない?失礼しました。
禅宗では師匠を超えるくらいでないと使いもんにならんと言われます。
超師の器。超師の機。
日本の宮大工の最高峰、匠職人さんを育てる鵤工舎の小川三夫棟梁の師、西岡常一氏の遺された鵤工舎の訓示に次のようにあります。
「鵤工舎の若者に告ぐ、親方に授けられるべからず 一意専心 親方を乗り越す工夫を切磋琢磨すべし これ匠の道の心髄なり。」
師匠が立派過ぎて超えられないなら、別の分野で超えればいいのです。
曹洞宗の祖師の一人、瑩山禅師は道元禅師から四代目の方です。
ある時、三代目の徹通義介禅師は「仏法の大意を一言で言ってみよ。」と修行僧に問いただしたところ、誰も応えるものがいませんでした。その中で瑩山禅師は「黒漆の崑崙、夜裡に奔走す。」と呈されました。
自己と外の環境とが隔てなく、真っ黒な玉が真夜中を走り回っているようなものであると。
自分を認めることがなくなった境涯です。
たった今、皆さんもこの文字をご覧いただいていた時に自分ということも忘れて、目の前の世界とピッタリ一つになっていたはずです。

師の徹通禅師はもっと平易に説くように、と促されました。
「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す。」
この自己は、そのものになろうとか、一つになろうとする以前から、元々、茶に向かえば茶になる。飯に触れれば全身、飯と自己との様子があるのみ。その時その時、向かっていることと全自動で元々一つになっている。キザな表現をすれば、自己と触れ合うものとのケミストリー。それが自己の正体であると。さらに、どこに仏法らしきもの、悟りらしきものを必要とすべきか!とご自身の大悟の境涯を述べられ、その凛とした様子からも徹通禅師も他の修行僧たちも確かな様子であることを感ぜられたことでありましょう。
自身の確信。真の自信。
確かなものを得た。確かなことを会得した人の輝きは「パネェ」ものがあります。
自分なんてとてもとてもと思っている人は、本当にその程度で終わります。
本当にやり抜こうと思う人は「その事のためだけに」になります。
自分の為にということが無くなった人は気がついたら輝いているのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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