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占いや鑑定はどうとらえるのが正解ですか?

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お世話になります。

以前にテレビで細木数子さんが出ていた時期がありますが自分の場合はその当時、病気をしていて辛かったこともあり何かに頼りたい、勉強したい気持ちもあり、真剣に毎回見ていました。

自分の場合、過去を照らし合わせてみると色んな事が見事に合致していることが分かりました。

賛否両論あるでしょうが自分はこの人は本当にすごいと思っています。

もちろん、何でもかんでも占い、鑑定で言われたことを真に受けるのが正しいかどうか分かりませんが、占い、鑑定の正しい捉え方があれば教えて頂けますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ちょっとあなたを占ってみました。
「あなたは物事を悲観的に考えるところがありますね。また、ご性格はまじめで心底八茶けられないところがあるようです。人から言われる言葉に無意識のうちに影響されているとでています。自覚はないかもしれませんが、不安な考えに侵されやすいようです。時折あまりよろしくないことを口にされたり、心の中で思っておられますね。それが災いしてあなた自身の運気を下げてます。なるべく周りの方にはそういうことを口にしない方が良いでしょう。
優柔不断な面がおありですね。人の意見に左右されやすいと出ています。有名な人の言葉を有名な人であるからと言って安易にうのみにしない方が良いでしょう。自分の意志で本当にこの人は大丈夫だ、と思った人の意見だけ採用するようにするとよいでしょう。ただし、現在あなたが傾倒されている人は、限りなく本物に見せかけた口のウマい人であると出ています。食品業界でも広告、CMをたくさん使っていると親しみを感じて、つい買いたくなってしまう心理と同じです。
人生は本当に慎重に生きなければいけません。物事を根本から見つめて、根拠のないことや道理に合わないこと、実証・立証できないことを信じるのは大凶とでています。」
さて、どうでしょうか?
ーーーーー
ハイ。
これらは全部誰にでも当てはまることです。
あなたを試したのです。
そうやって、占い師や人を惑わせる人に引っかかる人は騙されるのです。
全部、ウラも種もあります。
そういうことを知らない人は、すぐに騙される。
今日からは一切、根拠のないことを言う人間の言葉を信じないことです。
マジックやトリックがあるように、人間の話術や心理術は時代とともにどんどん洗練されています。洗練といっても所詮、ウソツキの技術。
仏法ではありません。
こういうことを悪用する人間はすでに生き方として地獄に落ちていることを見抜き、まっとうな人のまっとうな言を信じることです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

お釈迦様は言いました。
「私の弟子は占いはしない。」
私としてはお釈迦様の言う通りだと思います。
ただ、経験やデータなどによる統計的な事ってありますよね。
そういうものなら参考にしてもいいかなと思います。

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私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

あくまでも仏教的に申せばとなりますが・・

わたなべ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

現代仏教において、占いや鑑定を扱っている場合も現実にはございます。

ございますが、仏教の場合、必ずそれらが、悟り・涅槃へと向けてのもの(ある種の方便的なもの)となっているのかどうかが、それらが仏教に適うものであるのかを見極める一つの判断となるのではないかと考えております。

つまり、それらが、しかるべき仏縁と結びつき、仏道を歩むことに役に立って、無明(根本的な無知)や煩悩の対治、悪い行いを退けて、善い行いを進めていくためのものとなっているのかどうかというところであります。

ところが、それが、ただの現世利益、現世享楽のために留まり、あるいは、その者の無明や煩悩を増大させるだけのものであっては、結局は、お互いにとって、悪い行いとしての「悪業」にしかならないということを危惧する次第でございます。

では、どのようなものならば許容されるのかと言えば、仏教を修する妨げとなるようなものの排除として、例えば、病気を治したり、厄災を回避したり、少し生活に余裕を持たせたりするなどの一時的な抜苦をすることによって、仏教を修することに役立つものとなっているのかどうかということになります。

いずれにせよ、俗世にある限りは、占いや鑑定により、多少は一時的な楽を得れたとしても、根本的な四苦八苦の解決へと向けて仏教を修していかない限りは、所詮のところ一時的な楽も、ただのぬか喜びで終わってしまうことになりかねないのであります・・

ですから、あくまでも仏教的に申せばとなりますが、それらが仏道を進めるのに役立っていないのであれば、まあ、簡単な趣味程度にて(あまりとらわれないものとして)捉えておくのが良いのではないだろうかと存じます。

川口英俊 合掌

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最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

とても参考になりました。

気づかないうちに洗脳されていること多いですよね。

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