人生が長すぎると感じる
前回、前々回と主人の病気や実父との確執みたいなものについてご相談させていただきました。現在は、主人の病気も悪化してしまい再び無期限の休職をとり、私はパートとして働いていますが生きて行くため私も転職を余儀なくされている状態です。ですが、今までと違い、ここまで病気が酷かったのかと私の両親も理解を示してくれ、主人にとっての会社の社長でもある私の父も、出来るだけ協力する姿勢を見せてくれています。
私自身も今までと違い、主人の病気と向き合い、少しでも良くなるように前向きな気持ちで頑張れています。
ただ、こう、、たまに思ってしまうんです。私にとっての平凡な幸せは、いつ、訪れるのだろうかと。いつまで「がんばろう!」と力みながら生きなければいけないのだろうか、と。
大好きな人と結婚が出来て幸せです。しかし、私自身、中学生の時に父親の不治の病が発覚し、それを機に人が変わったような暴君と化した父親に、親としての尊敬や感謝や愛情を持ちながらも苦しめられ、やっとそれも私の中で気持ちの整理がついたと同時に、主人が病気になり、私もパニック障害を発症してしまいました。
子供もしばらくは、望めません。
なんだか振り返ると、いつも何かに足を引っ張られ、ずうっと心が安らぐ瞬間が無いのです。
息をいっぱい吸っても、吸っても、少しずつしか入ってこなくて苦しいような、なんだかそんなような感じが気付けばずうっと続いているのです。
いまは私が頑張らなければいけない時なので、なんとか気持ちを保てています。
ただ、これがこの先、このようなことが永遠と続くのでは無いかなと思うと、生きていたくなくなります。
死ぬまでこの苦しい感じが、続くと思うと長く果てし無く感じます。
すこし、休みたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生は前後を絶した「はしご」だと思ってください
「はしご」は今登っているところしかいることができません。
7段目に足をかけたとき、1,2,3,4,5,6段目に用はありません。
8,9,10,11段目を登る用はありません。
5段目、6段目、👣7段目👣 …8段目…
私は毎年年末に高い本堂の屋根の上にのぼってブロワーで溜まったはっぱ🍂🍁🍃を落とすのですが、高いとことではしごで登るときに前後を「観る」と、うひょー(; ゚Д゚)と一瞬防衛反応としての「こわさ」が生じます。
それは👀肉眼で見ているというより、(゜o゜)アタマで「観て」いるのです。
頭で観るから恐怖が生ずるのです。
同じように、人生が長く感じるというのは前後を観ている様子。比較や今起こっていないことを頭の中で想像上で悩んでいることであって、今踏みしめているところを親しまずに、先や後ろを振り返ってしまう時に生じます。
ロッククライミングなども「前後を観てはいけない」と聞きます。
後先を思って案ずれば想えば「頭でやられる」ものです。
まだまだ((+_+))これが続くのか、┐(´д`)┌ヤレヤレと思うとしんどいものがありますよね。
たぶん、考えで参っちゃっている、考え方で心を疲弊させているのであろうと思います。
今の一呼吸は昨日のものではありません。
今は今の呼吸。この後、3000回目の呼吸を数えながら吸ったり吐いたりする必要がありません。
同じく、今日の介護は今日の介護。
昨日の介護、明日の介護は用はありません。
今日から、介護されるときに、わたしは今ここでこれをやる。
これ終わったらスタバに行く。
スタバにいって充電したら、買い物に行く。一コマ一コマを重要視して生きる。と念じてみてください。
前後はなく、今いるところしかないということがハッキリされるはずです。
人生を細かい場面に切り分けて考えましょう
あるお坊さんは、「一人一日のうちに八億四千の念あり」と言われています。
念とは、心の時間の単位だと思うください。
人間の心を映画にたとえると、心の映画(動画)は、1日(24時間)の中には、8億4千コマの場面があるのです。
心には、それくらいたくさんの変化の連続です。
瞬間瞬間に浮かんでは消えるのが心です。
1日の中だけ見ても、ずーっと嫌なことばかり、ずーっと不幸、な日はありません。
私達が頭の中で勝手に「今日は一日中辛いことばかりだった」「今週はずっと不幸だった」と勘違いしてるだけ。
人生を、瞬間瞬間に細かく分けて見直してみましょう。
家族とケンカしたい1秒後に、芸人のギャグを思い出して笑ってもよいのです。
全然、不謹慎なことではありません。
そのような感じで、瞬間瞬間ごとに、不幸も悲しみもぶった斬って、心を楽しくしてください。
心はいつでも休憩できます。
休憩するチャンスは、1日に8億4千回(念)もあるんですから。
「念」を使いたい放題で、楽しく、うまく使ってください。