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人間関係……特に母親として。

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有り難し有り難し 11

はじめまして。
元々の打たれ弱い性格と自信の無さから、
しばしばうつ病のような症状が出るのですが、
自分で考えてみました。
自分が何故落ち込むのか……生きているのがツラく
なるのか……その原因は、
対人関係なんだと思いました。

中でも、子供が関係することには
いつもビクビクしていて、
今まではなんとか行けていた行事も、
今年は子供の運動会という大きな行事、
しかも私自身は特に何かする係りでもないのに、見に行くことが出来なくなりました。

行事を考えると寝られなくなり、
イライラもして自分ではないようになってしまうのです。

行事に出られないばかりか、
そこにいるママさん達が怖いのです。
何か悪口を言われることはありません。
ただ目線が怖い。
決して誰にも話しかけられないので、
私が居ないような存在なのかもしれません、
それも居たたまれなくなりツラいです。

私はどうしたら、ビクビクせずに子供の行事も心から楽しめるようになりますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

無明 ⇔ 明らか  観る ⇔ 見る   思考 ⇔ 事実

大丈夫です。それはすぐに晴れます。
あなたは物事に対して、自分の思いを混同させてみてしまっているだけだからです。
それは見ているのではない。
それは❝観て❞いるのです。
見るとは、肉眼で単体、単品で見るだけ。
観るとは、肉眼+臆測・推測・邪推・妄想。
その癖があるのでしょう。外しましょう、それ。
本当に肉眼でただママさんたちを見ている時は、思いは生じていない。
思い越しにママさんたちを❝観る❞時に、アレコレ思いが生じる。
「あのママさん、私のことをこう思っているんじゃないかしら?」
それがあなたは怖い。
つまり、低く評価されたり、見下されたり、DISられたり、打ち消されそうな「感覚」が嫌いなだけなのです。失いを恐れている。
おそらく過去にそういう事がおありになったのであろうかと思われます。
その再発が嫌で防衛反応的に、より一層警戒しているのではないでしょうか('ω')ノ。
それを克服して、自分の思いを交えずにママさんたちを見られるようになる為には、今までの私の回答をご覧いただくなりすれば大体用が足りると思いますが、埼玉にい住まいのようなのでオーストラリアやブラジルよりは近いと思いますので、毎週やっている日曜参禅会にお越し頂き、ズケズケ質問して頂ければ、その日のうちに迷い、無明が払われてその場でスッキリ。
翌日より安楽、超軽やかな毎日を歩めることでありましょう。だめだったら顔面パンチしてください。(笑)
こういう文字を通して学ぶより、よっぽど早いですわ。
埼玉と言えど広いですから、遠ければ08020659278(オー破裂、おムコ、国、名は?)まで、お電話プリーズ。
あ、レッツ成仏。
☎お電話は、あ、レッツ成仏。
オー破裂。
あなたの妄想も、オー破裂。
0802 065 9278
おムコ、苦に、縄。おムコ、苦に縄まで。
坐禅会の参加の際にも、一度ご連絡ください。
電話番号知られたくない方は、イヤよ。イヤよ。184を冒頭に。(笑)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

その目線の怖さの原因はあなたの中にある

ママさんたちはただ見てるだけです。下手したら見もしてません。
あなたが、ありもしないことを本当のことのように「考え」ているのです。
そうです。考えているだけ。
実際は見ているだけ。問題にしているのはあなたです。あなたが悪いと言っているのではなく、事実がそうなっています。
そのことに気がつけば一気に気が楽になります。今まで問題にしていたことがまったく問題になりません。
頭の中でコネコネとこねくり回した分だけ苦しむのです。そんな考えにとらわれ優先してしまう生き方を止めてみましょう。
というより事実がそのように問題になっていないことに目を向けましょう。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

質問者からのお礼

お二方ありがとうございました。
丹下さまにまず、大丈夫ですと言っていただけてどれだけ心が救われたかしれません。
何度も何度も繰り返し読ませていただき今後にいかしていきたいと思います。座禅会にも興味がわきました。機会がありましたら、宜しくお願いいたします。
邦元さま、そうですね、ただ見ているだけ。本当にそうかもしれません。今まで、対自分に対してしか物事を考えられなかったですが、じゃあ自分は他人に対してどうなの?と考えた時、自分もなんの感情もなくただ見ているだけの事があるかもしれない。一緒じゃないかと。言いたいことが伝わらないかもしれませんが、とにかく、なるほどと落ち着きました。ありがとうございました。

お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。

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