辛いと言ったらみんな同じだから我慢しろと言われました。
先日、学校の先生と10分ほど面談をしたときに生きていくのが辛いと言ったらみんな同じでなにかしら辛いことを抱えているんだから、がんばりなさい。と言われました。
確かにそうだと思います。辛いことや悩みがない人生なんてないでしょうから。しかし、がんばりなさい、と言われましても、何をがんばったらいいのでしょうか?辛いことを我慢して生きていくことを頑張ればよいのでしょうか?
また、辛いと言いましたがわたしは自分が今どうして辛いのかを明確に表すことができません。思い当たる節はいくつかあります。就職が周りよりすぐに決まったせいでがんばらないで就職決まったずるいと言われてしまうこと。イライラしてしまいよくないと思っても友人に当たってしまうこと。両親の喧嘩。両親がわたしの将来を応援してくれないこと。など、思い当たる節はあるのですが、それをいざ〜〜で、〜〜が、辛いと誰かに相談することができないのです。
わたしは変わりたいです。あっけらかんとして生きている人が羨ましいです。どうしたらそうなれるでしょうか。
長々、支離滅裂な文章ですいません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの仏様を持ちましょう。
亀山純史と申します。私からの提案です。
「頑張りなさい。」と言われても何を頑張ればいいのかが分からない、という状態は、「何かに辛い。」というよりも、漠然とした不安感があるのだと思います。
その不安感を取り除くには、正しく物事の道理を見ることですが、これはなかなか難しいことです。頭で分かっていても、心がそれについて行かなければなりません。
あるいは、不安を和らげる手立てとしては、あなたの良き理解者を持つことです。しかし、これにしても、四六時中、あなたのそばにいてくれることはできません。
そこで私がお薦めする方法は、自分の仏様を持つことです。仏様は阿弥陀如来、大日如来、あるいは薬師如来、と様々ですが、どの仏様にしても、いつもでも、どこでも、あなたのそばにいてくれます。一度、どのような仏様がいらっしゃるのか、調べてみてはどうでしょうか。どの仏様も、仏教の真理(この世界は縁起にして無我であること)は静的な教えではなく、動的な働きを持っていることを具現化したものです。そして、いつでも、辛くなったら、不安になったら、心の中でお参りをしてください。きっと心が少しは軽くなると思います。
辛いことを我慢することは一切必要ない
一般的に、苦労したほうがいいとか、我慢して辛いことを乗り越えたことが美しい。といった価値観が存在しているように思いますが、それは何の根拠もないように思いますので、そこについては考える必要もないでしょう。
就職先が決まっているとのことで一安心ですね。と言いたいのですが、何故ご両親は応援してくれないのでしょうか?そこに原因があるのではないでしょうか。人に認められたい。特に親には認められたいと思うのは自然のことでしょう。その仕事に問題があるのですか?そこに自信を持てるようになれるといいのですが。
欲・怒り・怠け・プライドに気をつける
「あっけらかん」としていない状態は、欲か怒りが発生しているときではないのでしょうか。
欲は、「もっと○○したい」「ずっと○○していたい」という感情です。
怒りは、「○○は嫌だ」「なんで○○しなきゃならないんだ」という感情です。
で、実は、どちらも、まだ「満足」していない状態なのです。
欲は、快楽悦楽を伴う楽しい感じですが、しかし、「もっと○○したい」というときは、まだ不満があるのです。
もっと食べたいは不満足、本当に満足したら食べるのを止めます。
怒りも、もちろん不満がある状態。「もう食べられない!」は怒りです。
「もっと生きたい」は欲、「もう生きていたくない!」は怒り。
でね、「あっけらかん」としているときは、あまり不満が無い(欲・怒りが強くない)ときではないでしょうか。
では、なぜ欲・怒りが出てしまうのか、その裏には、怠け心やプライドも潜んでいるのです。
たとえば、明日できることを今日やってしまいたいという欲は、早く済まして気を抜きたいという怠けがある。
明日は明日で頑張るぞという覚悟があれば、むしろ、明日できることは今日しなくてよい、休むべきときは休めばよいという「あっけらかん」が出てくるのです。
また、自分の実力以上の評価を求めるプライドも、「あっけらかん」を邪魔しますよね。
欲・怒り・怠け・プライドの感情に気をつけることを「頑張って」ください。
キーワードとして、「明日できることは今日しない」「他人と比べすぎない」を提案いたします。