今を生きている

この数日間、健康面を痛感しております。

明日は我が身ではないですが歩みは紙一重。

暫く仕事もお休みをしても職場が気にかかり葛藤が続いています。

一人ひとり限りある命、思った以上に身体と気持ちがついていかなく儚く、無情さを感じております。

儚く、無情さを感じても「今を生きている」ことは皆さんと一緒、楽しい、嬉しいこともあれば苦しい、辛いことが多い場合もあります。

先ほど自宅近くの川岸にある銀杏の木は黄金色へ変わり始めています、木々も自然と共に「今を生きている」

苦しいから乗り越えた先には嬉しいこと、辛いことが分かち合えるのかも知れませんね。

共生と寄り添いながら。

生きる意味
有り難し 19
回答 2
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

そんなネガティブ無常は仏教でも何でもない

日本の教科書に書いてある無常は仏教本来の無常とは言えないところがあります。
花が散る、枯葉が散るゼ、落ちる落ちる、枯れていく。
オレもそうだ、いつか死ぬぅ。原爆落ちたら、みんな死ぬぅ。ああ、悲しゼ、せつないゼ、ああ無情。
そういう無常は無情と混同されたネガティブ心情に浸っている一種の自己陶酔で仏教でも何でもアラジンです。
本当の諸行無常とは救われの法の理です。
人間の見解が事実に付着しない様子です。
苦しみはいま、もうそれを離れて前の様子から全自動で解脱しています。
あなたが苦しみだと思ったことは「一時的なトリミング加工」「一時的な留め」でしかありません。考えの上ではそう考えられるようであっても、あなたの言うように心もどんどん葉の色の変化よりも早くコロコロ変わっています。いつどこの誰が永遠にその状態にとどまったままでいられましょうか。
人は思いで苦しむだけです。
思いには事実に対して精神的な色付けをする効果があります。
その精神的な色付け効果による、思い・思われが錯覚を呼び起こすのです。
あたかも実際がそうであるかのような疑似感覚を生じます。
それが人間の苦しみというものです。
それは頭で思ったこと、考えによって引き起こされた評論・評価。是非善悪を論ずる心の活動によって、心が浮き沈みを起こしている状態にすぎません。
仏教の無常とは、永遠に真新しい今を、いまここで、今ということも忘れて、全自動で流れっぱなしの状態です。それは外の世界がどうこうではなく、この自己がいつでも人がいなくても流れ出す全自動自己浄化機能付きトイレのようにいつでも前のことを洗い流して救われている様子に目覚めることです。常に自己が洗い流されっぱなしであることを自覚した人は心にとどまりがありません。転がる岩にはコケがつかないように、常にrock 'n' rollな、ライク ア ローリング ストーンな生き方になります。
コレからそうなるんじゃなくて、もともとそうだったってことです。
もともとそうだったってことが分からないと、感傷に浸るネガティブな人生に陥りますので、そういう「ああ無情な無常」を捨てて「OH無上な無常」に目覚めてください。

この自己という法身は常に清め洗い流され続けることキン肉マンのベンキマンのごとし。
諸行無常の響きあり。
ふんじゃー🚽

9日前

究極的な幸せへ向けて

あきら様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

拙生も40を過ぎて、昔と違うことを実感しています・・

昔は、3日でできていた作業が、もう倍掛かることも・・

まあ、無理をせずに、今の自分を受け入れながらにです。

「全ては縁起し空である」

一切は因縁(原因と条件)など、他によりて起こるもの、それらには、実体と言えるものが無いということになります。

因縁次第において老病も死もあり得ているもの・・因縁によるところゆえ、仕方がないところでもあります。

しかし、それで何もかもが終わりゆくわけではなく、因縁は後生にも影響を及ぼすものとなって参ります。

因縁により、今世でも幸せがあり得る如くに、因縁により、来世の善き結果も望めるものにもなるのであります。

今世の世俗的な幸せは、所詮、一時的なものばかりでありますが、仏教が目指す真の幸せとしての悟り・涅槃は究極的なものとなります。

その悟り・涅槃も因縁によるところ。

世俗における幸せも、究極的な幸せも、それぞれ善き因縁を調えることに努めることで、善き結果を迎えて参りたいものでございます。

是非、究極的な幸せへと向けた教えとしての仏教についても、しっかりと学び修していって頂けましたら有り難くに存じます。

川口英俊 合掌

9日前

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