男性からの猥褻行為がトラウマで抜け出せません。
もう忘れ去りたい、思いだしたくもない、記憶から解放されません。
心ない男性の行為で性的なトラウマができてしまい、ふとした行為、公衆トイレや彼の話した内容に似たような言葉を耳にすると、胸が苦しく涙がとまりません。
ptsdかなと、精神科へ通ってみましたが、時間が解決するとのこと。
もう3年ほど時間が過ぎたのに、心は変わらず、スイッチが入ると
「なぜ?私があんな目に?」「なぜ、相手はノウノウと謝罪もなく楽しく生きているのか」「なぜ、あんなに頑張った私が女として最低で最悪な屈辱をあんなゴミ以下の人間にされなければならなかったのか?」「私はそれを受けるべき罪深い価値のない人間なのか?」
と、怒りと情けなさと、屈辱と恥で、自尊心が下がりすぎてしまい、人から愛されるとか、人を好きになるとか、そんな普通のことが、もう私にはできないんだと、落胆し、自分をすごく汚ない恥さらしな意味のない、女としての存在価値がないものに感じてしかたなくなります。
いろんな本を読み、いろんな人に会い、様々な話を聞いて、過去のことだと忘れて、前を向きたいのに、何をやってもどうしても、この出来事が頭から離れずに苦しいんです。
過去を認めてみたり、行ってしまったことに意味があると考えようとしても、結局自分を落胆させてしまいます。
相手に謝罪してほしい訳じゃない、忘れさって何事もなかったフリをしたい訳じゃない。
私は、私のこの苦しい気持ちを誰かに理解してほしいし、それを諭してほしいんです。
誰かにわかってもらいたいんです。
私は汚されて、そして苦しんで今生きていることを。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
犬に噛まれたって汚されはしない
たとえば、犬に噛まれた場合、噛まれた人は汚されるでしょうか?
汚されません。
たとえば、交通事故にあった場合、被害者は汚されるでしょうか?
汚されません。
では、あなたは、汚されたのでしょうか?
汚されてはいないのです。
実体のない「汚された」という概念にとらわれていると、なかなか抜け出せません。
実体があるものは取り除けますが、実体がないものを取り除くのは難しい。だってはじめから無いのですから。
残酷なようですが、
実は、
あなたははじめから汚されてはいないのです。
汚されていないのに汚されたと、
自分で自分に「ラベル」を貼ってしまっているだけなのです。
仏教では、「法は無我である」と言います。
この場合、「法」とは、人間が頭で考えた概念・観念のことです。
「無我である」とは、夢・幻のように実体が無いこと、空虚であることです。
「汚された」という「法」が無我であったと、認めてください。
しかしこれは、逆にいえば、3年間、悩まなくてよいことに悩んでいた、3年間、しなくていい苦労をしてきた、と認めることでもあります。
悩み苦しみのきっかけは加害者ですが、悩み苦しみの根本原因は、あなた自身が「法は無我である」という真理を知らなかったことなのです。
どうか、真理に目覚めてください。
「汚された」という夢(勘違い)から覚めてください。
仏教は、人間が先天的に持っている「勘違い」を破ることで、悩み苦しみを減らしたりコントロールしたりする教えです。
仏(ブッダ)とは、真理に目覚めた者という意味なのです。
質問者からのお礼
「法は無我である」という真理を知らなかったことなのです
「汚された」という夢(勘違い)から覚めてください
この言葉が心に響きました。
私は真理を知らなかっただけ、私はただ勘違いをしていただけ。
なのですね。
ありがとうございました。