僧侶の妻としてのご奉仕について
今年、別院にいる僧侶と入籍しました。
いくら正社員として働いているとはいえ僧侶の妻ですから私も出来る限りお寺のことを学びたいですしご奉仕もしたいと思っているので、坊守としてやるべきことがある時には出来る限り仕事はお休みを頂いてご奉仕させて頂いています。
しかし、最近病気で入院し、職場でもらえるお休みをほとんど使い果たしてしまいました。
冬になり、もうすぐ報恩講が始まります。
坊守としてもやるべきことがたくさんあることさ分かっているので、まだまだ全然万全ではない体に鞭を打ち少しでも参加しようと世話役の方に数時間だけでもと伝えたところ、病気は理由にならないからちゃんとご奉仕しなさいと言われてしまいました。
報恩講がどれだけ大事なものかも旦那から聞いてはいますが、ご奉仕とはお給料を頂いて働いている仕事を疎かにして、体調を崩しながらでもしなければならないことなのでしょうか?
今までの私の常識と違い、悲しさで涙が止まりません。
旦那に相談すると、『もう全部行かなくていいよそんなところ。』と言われるのですが、私としてはそういう訳にはいかないのです。
ご縁があって僧侶の妻になったわけですし、旦那が職場でうまくいくように私も坊守会で他の奥様方と仲良くしていたいのです。
私は今後、どうしたら良いのでしょうか?
このままでは心も体もだめになってしまいそうです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
報恩講-教えに出会う
入籍おめでとうございます。僧侶の妻というご縁から志を高く持ち、突っ走って頑張ってこられたのですね。
ぺこさんはよく頑張りました。ここらでちょいと一息入れて落ち着いてみませんか?
あれもこれもは上手くいきません。思い通りにもなりません。
思い通りにならんものを思い通りにしようと頑張って苦しんでいる私たちに、「そのままでいいんだよ」の呼声を届けてくださる南無阿弥陀仏の教えを伝えてくださった親鸞聖人への御恩、そして如来大悲への御恩に出会わせていただくのが報恩講ではないのでしょうか。
(お話しぶりから浄土真宗系とお察ししますが…)
・お寺のことを学びたい
・ご奉仕もしたい
それは誠にけっこうな事です。尊いです。有難いです。
しかしそれが「旦那が職場でうまくいくように私も坊守会で他の奥様方と仲良く」するための手段と化してしまってはいませんか?
聞法とは処世術ではありません。求道です。自分の姿をあきらかにすることです。今、ぺこさんの姿はどんな風になっているでしょうか?
頑張り過ぎてボロボロになってはいませんか?
まずは心と体を休めましょう。
何のための夫婦でしょうか?旦那さんの立場や坊守会のことが心配なお気持ちも分かります。しかしこんな時だからこそ、ご主人を頼り、夫婦で支え合ってはいかがでしょう。
色んな小言ややっかみや嫌味を言う人もいるでしょう。そんな人たちともともに教えに出会わせていただくのが報恩講です。
ぺこさんにとってはお休みになりながらでも、ご自身のお勤めにいそしみながらでも、そういう教えに出会わせていただくならばそれが報恩講です。
無理は禁物ですよ。
追記
御礼拝読しました。ぺこさんは本当に頑張り屋さんですね。無理せずこれから教えに出会っていきましょうね。
ご夫婦仲良く、末永く幸せでありますことを。
合掌
あなたの居場所を奪わないことがご法座の要(かなめ)
浄土真宗のご宗旨とお察しします。
また、お別院にお勤めのおつれあいさまや貴方のご事情も、とりわけ地域の独自性が強いことですから、坊守としての奉仕を求められるご事情もお察しするところです。
病み上がりの思うに任せないご自身の状況のもと、今回の世話役の方のお言葉が特に強く突き刺さったかもしれませんね。
もちろん貴方は世話役の方の深い思いは理解されていると思います。世話役の方も報恩講をお勤めすることに本当に心を砕いていらっしゃるのでしょうから、結果としてそのような強い表現になったことも。
でも、そのような強い思いが、誰かの居場所を奪っていないか、私も自らの行動発言に自問自答することを繰り返しています。
私は、浄土真宗のご法座の原点を時おり振り返り心にとどめています。
次の「浄土真宗の聴聞の心得」をご存知でしょうか。
一、このたびのこのご縁は、初事と思うべし
一、このたびのこのご縁は、我一人のためと思うべし
一、このたびのこのご縁は、今生最後と思うべし
もう少しその意を伺えば、次のようにも言えるでしょうか。
一、このご法座には、初めて浄土真宗のお話を聞く人がいますよ。
あなたのモノサシを押し付けて、誰かの居場所を奪っていませんか。
一、このご法座には、誰一人関係のない人はいませんよ。
一部の人のためではない、あなたのため、わたしのためにご法座があります。
一、このご法座には、遇い難くして遇う、他に代えがたいであいがありますよ。
今ここでの「すくいのめあて」こそ私と聞かせていただきましょう。
ながい歴史のあゆみに大切に受け継がれてきたご法座への思いと共に、
私はこんな風にもご法座を感じています。
・たとえ短時間でも、あるいは居眠りもいいじゃないですか。日々仕事に生活に疲れ切った身を、安心して休息に委ねられる場所がご法座であるなら。
・そのご法座を影に支えて下さるご奉仕のありがたさ。お給仕をし、部屋を暖め、庭掃除に受付、お斎のご接待。自ら聴聞の座に加わらずとも、その瞬間を大切に守って下さる多くのはたらきのありがたさ。
この度の悲しみをどうぞお念仏のご縁といただきましょう。
法然さまは「何事もみな念仏の助業なり」と示されています。そして、親鸞さまはその助けに優劣や難易を問うことを厳しく戒められています。いずれも「ただ念仏」とのお示しです。
質問者からのお礼
お話しを聞かせていただきましてありがとうございます。
涙を流しながら読ませていただきました。
色んな意見を持つみなさんとともに教えに出会わせていただきたいと思います。
今の私にとってお寺でのことがいつのまにか処世術となっていたんだなぁと考えさせられました。
処世術ではないのだと心に刻み、主人に頼って支え合っていきたいと思います。
本当にありがとうございました。
お話しを聞かせていただき、ありがとうございます。
『あなたのモノサシを押し付けて、誰かの居場所を奪っていませんか』というお言葉に、はっといたしました。
悲しみとやるせなさから、私も強い言い方をしてしまって世話役の方の大切な居場所を奪ってしまうところでした。
今回のこともお念仏のご縁なのですね。
このご縁をありがたく頂きたいことでございます。
誠にありがとうございます。