自由意志について
自由意思はあるのでしょうか?
全ては決まっていると考えた方が、
現実を受け入れやすくなり、
苦や自我から解放され、
悟りの状態に近づけるのではと思いました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『自由』
自由意志は西洋哲学の用語です。全く詳しくありませんが、一神教の運命とか神に与えられた使命的な発想へのアンチテーゼなんだろうなと思っています。まぁ、それぞれの宗教や哲学にそれぞれの救いの方向性があるわけですから、みんな違ってみんな良いんです。
でもせっかくhasunohaでご質問いただいたのですから仏教の視点から書きますと、仏教は『諸行無常』です。
全ては決まってるんだかランダムなんだか知りませんが、『あらゆる事象は変化する』ことは確かです。その変化するということそのものを受け入れればこそ、執着を離れ、苦を離れることに繋がります。
変化を抑えるのではなく、変化の中で生きる。そんな感じ。
なお、物理学の中でアインシュタインの相対性理論は決定論寄り、シュレディンガーやハイゼンベルクの量子力学はランダム論寄りなのですが、その対立する両者がどちらも「仏教の発想には多くを学んだ」という主旨の発言をしています。
仏教は決定論と自由意志のどちらとも相性が良いんです。八万四千の法門って言うくらいですしね。
ただ、仏教の悟りって何かと言うと、定義しない心なんですよね。これが自分だ!ってことすら定義しない。自分というものが定義されないから自分本位の意志がない。でも同時に、自分というものが定義されないから他人も自分のことのように大切にできる。そういうことを自分の意志で出来る。自分が有ると言えば有る、無いと言えば無い。
そこが仏教の目指す救い、『自由』です。
『自由』とは本来、仏教語です。フリーダムの訳語になってだいぶ意味が変わっちゃっていますけどね。
中道
たにし様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
全てが既に完全に実体的に決まっているとしては、何をどう成そうが全てが決まって有るものとして、それは常見として、仏教では偏執見として退けられることとなります。
かといって、全く決まるもの(これをすればこうなるということ)も完全に無いとしてしまうと、断見として、それも偏執見となってしまいます。
仏教では、その間の「中道」を目指すことが大切なこととなって参ります。
基本的に、仏教は、因縁論となりますが、その因縁論に関しても中道的に理解することが必要となります。
その理解のために、仏教においては、中観派という思想がございまして、その中道(主には縁起と空の理解)に関して明らかにされているところとなってございます。
是非、ご興味がございましたら、龍樹大師より始まる中観派の思想遍歴を辿られて理解を深められて頂けましたらと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
大慈様
ご回答ありがとうございます。
変化することより、正しさに対する執着が多くの苦を生んでいる気が私はしております。
定義しない心を目指すと定義せざるを得ない
それもある種の執着ですか?
川口様
ご回答ありがとうございます。
全て決まっていると考え、諦めてしまうことすらある種の執着となってしまう、既に議論されているのですね…
龍樹と中観の思想遍歴を辿ってみます。
しかし、中観を知るには両極が必要ですよね。
定義したうえで、定義したものとされたもの、そのどちらでもない、もう一つがだいじ?
定義の自己言及ですね