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息が詰まります。

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おはようございます。
引っ越し先はリフォーム中、私は殆ど一人でエベレスト山級の50数年生きてきた住んできた荷物の分別は途方もないです。まるで小さい蟻がエベレスト山を崩す様な事だなと実感しています。心臓がバクバクしてフラフラしてしまいます。お金の節約の為使える物は引っ越し先に持って行こうという事にはなっていますが主人と意見が合わない時が多くなってきています。贅沢を私はしているつもりはなかったのですが余りお金の管理は上手ではなく現金があまりないのでそれも主人は怒っています。ですから荷物の分別、捨てるなどの作業は業者を頼るつもりは主人はないようで私は一人でしなければならないようです。御坊様、何度も言ってしまいますがこんな厄介な事に巻き込まれる必要はなかったんです。穏やかな定年を迎える筈でしたが、ああいう血族を持ってしまった私という妻がいるのが主人をイライラさせてしまっています。とにかくやれる事はします。心で泣いて顔は微笑んで。こんな私で主人には申し訳ないです、本当に。でも、時々心も身体も崩れ落ちそうになります。どうか踏ん張れるようお坊様のお祈りが必要です。お願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人事を尽くして天命を待つ。
やれることをコツコツとしていきましょうね。
あとはきっとどうにかなりますよ。
山の頂上を見上げると目眩がしますから、先ずはしっかり足元を見て、要らないものを捨てていきましょうね。
捨てる物、実家に残す物、新居に持っていく物、この3つに分類するのがいいかな?
焦らずに、ちょっとした健康の為の運動と思って頑張りましょうね。
あなたが無事に乗り越えられますように。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

分別上手のススメ

デカい袋か箱を沢山用意します。
まず6分野に分類するとよいでしょう。
般若心経にもありますが、眼耳鼻舌体心の6分野に分類するのです。
もちろんそれでなくても結構ですが、どんなものも必ず「何か」に分類できるものです。
6つに分類すれば沢山のエベレストもチョモランマも「6つ」になります。
「沢山ある」とアタマで思ってしまっているのでしょう。
ものを眺めるときに思考越しに眺めることはそのものの真実を見誤ることです。
ご主人に対して、ものに対して、ワンちゃんの今後に対して、マサマサさんが「思ったこと」を真実だと思わないことをお勧めします。
思ったこと、思えてしまったこと、そのように思えてしまうことと、
「実際にどうなっているか」とは別物です。
分別上手とは、思考と事実とも混同しなくなることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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