魂が抜けた後の遺体に意味はありますか。
ネットで「拾ったインコが亡くなったので、飼い主がみつかるまで冷凍保存します」という投稿を目にしました。「なんて優しい人だろう」と思いましたが、同時に「早く埋めてあげてほしい」とも思いました。
調べてみたら「体は魂の器」とありましたが、魂の抜けた遺体に対して、その魂本人は思うものがありますか?
寒い外で拾われて更に凍らすということになんだか、人間本位のエゴを感じるように思いました。
棺に花を飾って出棺し、残った人がお別れの気持ちを固めるように、ペットの遺体も残った人 本意で、冷凍保存など自由にしても大丈夫なのですか?また、仏教的に人間と動物、死に対する考えは同じですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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遺体がないことは、「さよならのない別れ」
はじめまして。亀山純史と申します。
最近、「さよならのない別れ」という言葉を聞きました。これは、震災や失踪により、遺体または遺骨がない状態で、その人が生きているのかどうなのかわからない、つまり、身体的にはここにはいないが、心理的にはどこかでまだ存在しているのではないか、という心の状態のことを指す言葉です。これは、裏返せば、私たちは、遺体や遺骨によって、受け入れ難いその人の死を受け入れざるを得ない状態になることを意味していると思います。その意味では、遺体や遺骨は意味を持つものだと考えています。これは、ペットにしても同様でしょう。大切に飼っていたペットが、ある日突然、自分の手元から姿を消してしまったならば、「今、どこにいるんだろうか。」「元気にしているだろうか。」と思い続けるのではないでしょうか。ペットのための墓園もあります。多くの方が、人間と同様にペットに思いを寄せ、読経を依頼し、墓前に手を合わせます。
遺体を冷凍にすることに対しての可否はわかりませんが、早く、元の持ち主が現れてくれることを願っていたことは、確かではないでしょうか。
なるほど。「体は魂の器」。
確かに魂はもう亡くて、どこかに行ってしまって亡骸だけになっているのですものね。
寒いところで死んでしまって、また冷凍庫で凍らされるのも確かにかわいそうにも思えますね。
さて、今年ももうすぐ終わりです。私は来年の新しい手帳を買いました。新しい手帳は12月から始まっているので、古い手帳はもう使わないのですが、この一年の思い出がいっぱい詰まっていてなかなか捨てられないものです。
インコと手帳を一緒にするのは無理があるかもしれませんが、飼い主さんにとって、そのインコさんには、たくさんの思い出が詰まっているとおもいます。たとえ魂はなくても。姿だけでも。
モノに対する執着は苦の元になるので手放した方が良いと思います。飼い主さんが見つかったら、飼い主さんの手で葬ってもらうのが一番良いと思いました。
質問者からのお礼
光禪さま、ありがとうございます。
よく理解できます。古い手帳は過ぎた思い出の器なのですね。飼い主さんが見つかったら、凍ったその器を見て中身を思い出し、ちゃんとお別れできるといいなと思いました。
亀山純史さま、ありがとうございます。
インコを拾った人の気持ちの深さがよく分かりました。実は、私だったら埋めてあげようと思っていました。そこまで思慮が足りない自分はまだまだだと反省しました。お別れするために、それそのものを受け取る悲しみは、飼い主にとって必要なものなのですね。
拾ったのが私でなくて良かったです。