何の為に生きているのでしょうか?
いつも回答して頂いているお坊様方、ありがとうございます。
三回目ですが、質問宜しくお願いします。
当方男三人兄弟なのですが、10歳離れた弟が三年前の今日、自死しました。
今日は命日なのでお墓参りに行ってきました。
母も15年前に癌で他界しています。
僕は小さい頃からメンタルの病気を抱えていて、今は働くことも出来ず、他人と関わることが怖くて出掛けることもままなりません。
二人兄弟になってしまった後、9歳離れた次男とは絶縁状態になってしまいました。
正直、これから何を心の支えにして生きていけばいいのか分かりません。
自分が今息をしてる意味も分からないんです。
極端に言えば、死ぬ理由も無いけど生きている理由も無いという感じです。
年末のこの季節になると、本当に孤独が見に染みます。
生きてても辛いことしかないように思ってしまいます。
早く、母と三男に会いたいです。
お伺いしたいのですが、「生きる」とはどういう事なのでしょうか?
辛く、悲しい日々を生きる事が「人生」なのでしょうか?
生きる事に価値はあるのでしょうか?
死後の世界について。 死んだ人と再会できるのか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
悲しみや苦しみの中で精一杯生きていくところに…
はじめまして。亀山純史と申します。
はじめに、中西智海さんという和上さまがお詠みになった詩を紹介します。
『人は去っても その人のほほえみは 去らない
人は去っても その人のことばは 去らない
人は去っても その人のぬくもりは 去らない
人は去っても 拝む掌(て)の中に 帰ってくる』
亡き人との思い出は、その人が居なくなっても消えることなく、むしろ、その人との思い出は、遺された私たちを大きく成長させてくれるもの、になるのではないでしょうか。そして、手を合わせて亡き人を思慕するところに、亡き人はあなたのところに還ってきておられるのです。
さて、「生きる」とはどういう事なのか? 辛く、悲しい日々を生きる事が「人生」なのか? そもそも、生きる事に価値はあるのか?
天才将棋棋士村山聖九段の人生を描いた小説、『聖(さとし)の青春』をご存じでしょうか。昨年、映画化された小説です。彼は五歳のときに腎臓の難病であるネフローゼ症候群にかかります。そして、もはや外で走ることもできなくなった彼に、父親が病室で将棋を教え、彼は病と闘いながら、「東の羽生、西の村山」と並び称される棋士へと成長していくのです。しかし、彼が27歳のとき膀胱に癌が見つかり、1998年の夏、29歳という若さでこの世を去ります。 彼が遺したメモに、
「人間は悲しみ、苦しむために生まれた。それが人間の宿命であり、幸せだ。僕は、死んでも、もう一度人間に生まれたい。」
というものがあります。
「人生のあるべき姿」なんて、所詮、幻想なのかもしれません。 難病と闘いながらの人生を歩んだ彼が、自分の人生を卑下することはありませんでした。メモの最後に書いた「僕は、死んでも、もう一度人間に生まれたい。」とは、「悲しみや苦しみの中で、それらと向き合って精一杯生きていくところに、人間として生まれてきたことへの喜びや価値がある。」ということではないか、と私は思っています。
拝む掌(て)の中に帰ってくる故人と共に、この世に人間として生まれてきたあなたの命を、精一杯生き抜いてください。
質問者からのお礼
亀山純史様、回答有り難う御座います。
辛く悲しい人生に生きる意味がある、とのお言葉、とてもずっしりと響きました。
これから少しでも自分の人生に意味を見出だせるように、少しでも前を向いて歩いていけたらと思います。
また、相談させて頂く事があると思います。
その時は是非また宜しくお願いします。