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犯罪について

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有り難し有り難し 53

神様、仏様が存在するとしたら、なぜ凶悪事件が起こるのでしょうか。
どこかで止めてくれてもいいのに。
また大きなことで言えば、戦争はどうして起こるのか。

無関係の被害者や小さい子供は、どんな意味があり、辛い思いをしなければならないのか。

それはどのように考えたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

神仏とは?

宇宙の創造主・運命の支配者としての神仏の存在を認めるならばそのような疑問も成り立つのかもしれません。
全ての現象において創造主がそこに込めた意味が問われることになります。

しかし仏教が説くのはそういうことではありません。仏様とは宇宙の創造主・運命の支配者ではなく、真理を顕かに覚ったものです。真理とは様々な表現がなされますが、ここでは「縁起の法」をとりあげますと、

全ての物事には原因がある。あらゆる原因が影響し合ってその現象が生じている。全てはつながっている。つながりを人間が私的な解釈で分断している。だからそのつながりを大事にする(自利利他円満)。

というようなことです。

意味があるから戦争や凶悪犯罪があるのではなく、戦争や凶悪犯罪が起こる原因があり起こっています。
その原因は「無明(むみょう)=真理があきらかではない」ということが挙げられます。
全てはもともとつながりあって物事が成り立っているのに、それに気づかず人間が私的な解釈で

・これは私のもの
・私が正しい

などと分断し、「私がー!」「私がー!」と主張するとそういう結果となってしまう事でしょう。
だからこそ仏様は私たちに「(真理に)目覚めなさい」とおっしゃるのです。

ですから神仏が意味を込めて戦争や凶悪犯罪を起こしているわけではありません。むしろ意味を私的解釈で人間が捏造しその正当性を争うからそうなります。

しかし、意味があって戦争や凶悪犯罪が起きてしまったわけではなくとも、戦争や凶悪犯罪により失われた小さい子供たちの命に意味がないわけではありません。意味は後付けの解釈ではありますが、生まれたという事実から始まる私たちの命においてその事実に私がどう向き合うかという一点において、あるいはその命から他者が何を見出すかという一点において我々の命から意味が失われることはありません。

神仏を私の解釈に当てはめて考えその正当性を疑うのでなく、私の解釈を疑う。その解釈を破るはたらきとしての神仏に私を学ぶ。

そういう方向性で学びを進めてみましょう。

みんながつながっているからこそ、一人ひとりが真理をあきらかにし、あるいは真理に私をあきらかにされるならば、世の中は変わっていくと思うのです。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

外の仏に頼らず、内なる仏で世を良くあらしむる。

残念ながらそういう都合のいい神仏はいません。
だからこそ自らが神仏の心、やさしい心、慈愛のこころを蓄えて隣人たちに言語し、行動するのが具体的な仏の心、慈悲の心の実践です。
このhasunohaを含め、そういう慈善活動をする人がどんどん増えなければ世は良くなるわけがありません。良くなるわけがないのです。

以下はお願いです。
この世の中は、あなたの言う通り凶悪事件や犯罪、戦争が病みません。
それはそういう心に染まっている人たちが引き起こすものです。
分かりやすく申し上げれば心のバイキンマンに感染した人たちです。
ですが、ここで大事なのは、あなたもバイキンマンに感染しないこと。
そうやって世間に「神仏がいない」と不平や不満をいう生き方をされていたずらに自分の心を苦しめる生き方をされるのであると、実はそれもバイキンマンに感染してしまうのです。(喩えです)
それでは、神仏がいないと不満を言っているだけの人間どまりです。
権利だけは主張して、自分が善玉菌を広める活動をしていかないのであれば傍観者です。
あなたが宗教心に目覚めていただくことこそ、世の中を75億分の1、善玉菌になっていただく大切なチカラなのです。
もうお分かりであろうと思います。
あなたはそうやって世の中の悪いことや、やさしさのない世界に加担されたままでいるのか。
それともあなた以外の困った人間を手助けする生き方をするべきでしょうか。
仏教には具体的な善玉菌活性化活動を説いています。
愛語、利行、布施、同事。
これが菩薩への修行道です。
そこに神仏の心は生まれるのです。
あとは100を思うより1を行動として行われることで、あなたの中に具体的な優しい心のエネルギーが生ずるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答、ありがとうございます。

私自身、もちろん、犯罪はおこしていませんし、虐待もしていませんが、人に対して、手をさしのべるかと言われたら、自分の心に余裕がなければできませんし、自己主張も強いです。
ニュースでの虐待など聞くと、生まれることに意味があり、加害者の学びにはなったとしても、被害者で、しかも亡くなった子の苦しい、辛い思いをして、その子は、得るものはあるのかは、やはり、考えてはしまいます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ