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必ず…とは?

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ハスノハは毎日閲覧しています。お坊様のご回答に「必ず幸せが…」とか、悪い事をした方には「必ず…返ってきます…」など…必ず…なのでしょうか?私は、友人に騙されてお金を騙し取られ、今だに連絡がつかない状態です。以前の相談では返ってこないと思え。と、アドバイスを受けました。そう思い、1年半以上過ごしてきましたが、私は、親の介護、受験生の子供がいて毎日、空いている時間にはパートをしています。最近、お金を渡した友人は、家を購入した、と、噂を耳にしました。やはり、腹が立ち警察に相談しましたが、証拠がないので何もできない。と…弁護士さんは、費用が払えないなら何もできないと…幸せになれる?悪い事をしたら、返ってくる?必ず……ですか?一生懸命やっていても、正直者がバカをみる世の中。お坊様は、必ず……と、言い切れるのですか?乱文で申し訳ありません。
今までは、お坊様の回答に納得していましたが、今は、簡単に必ず…と、言われても自分の中では、必ず……なんて無い!と、思ってしまっています。所詮、その方は悪い事をして幸せになっているのだから。私は、まじめにやってきたつもりですが、幸せにはなれません。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

必ずは誰が必ずにするのか

「絶対にないなんて絶対にない」くらい言葉は矛盾するものです。
言葉というものは元々はそこに意味はついていません。
たとえば世の政治家さんたちは基本的に嘘つきばかりでしょう。言葉でだけそれらしいことをいう。公約としてかかげたことももっともらしいことばかり口にして国民からの支持を受けていったことを実行しない職業です。
言葉というものは本人がそこにどれだけ真実性を込めているか。
そこを見極める必要があります。
言葉というのは現実より劣るものです。
事実、現実、実際は言葉に優るものです。
あなたは言葉を信じてはいけません。
事実を信じるようにしましょう。
…からの、貸したお金は取り返しましょう。
ゼッタイに、取り返しましょう。
私だったら借金取りに扮してでも取り返します。
ゼッタイということばを真実にしましょう。
ゼッタイ、取り返すのです。
大丈夫です!取り返せます!
その払い過ぎた過払い金…じゃなかった、貸したお金は「必ず」取り返すまで追いかけましょう。
人間は自分と接する物事や相手、状況などに自分流の思い方をして苦しむのです。
「事実には人間の思い方や見解はついていません。」
ここを知ることであなたは「必ず」救われます。
これは間違いありません。
私は現在、入院中のベッドの上からこれを売っています。
病気あることも忘れています。
それくらい今の事実に忠実に生きているからです。
悪く思うことで人は苦しむだけです。
私の本質はいまここがどこであるかも知らないまま過ごしているだけです。
それが無色透明の事実というものです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

入院中にも関わらず、ご回答ありがとうございました。実は今朝、ご回答を見たのですが、お礼が遅くなり、申し訳ごさいません。回答してくださった文章を、何度も読み自分なりにやっとのみ込めた状態です。ゼッタイに、お金は取り返します!と、言えるまで時間がかかってしまいました。お礼が遅くなりました。
お体、大事にしてください。
ありがとうございました。

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