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念仏、読経、真言念誦の時の雑念について

回答数回答 2
有り難し有り難し 49

お念仏、お不動さまの真言念誦を毎日108回づつ、
読経(阿弥陀経と般若心経)も行っています。

最初の頃、まだ暗記する前はむしろ教本に集中できたのですが、暗記してしまうと、自動的(?)に言葉が出てくるためか、かえって雑念が増えてしまいました。

「あまり気にせず、念誦や読経のことを考えていれば、いずれ雑念は消える」とも聞いたのですが、ぜんぜん消えません。
仏様や仏教のことだけを考え、雑念を払おうとすればするほど、次々にくだらない想像が沸いてきます・・・

日常の些細なことなら良いのですが、腹が立ったこと、しまいには映画やマンガのHなシーンや残酷シーンまでも浮かんできて、これは冒涜じゃないか? と心配になることもあります・・・・

こうした雑念についてどう考えるべきか?
ご教示いただけたら幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

雑念を「雑念」と識別した張本人

※真言はちょっとわかりませんが…。

その次から次へと湧いてくる妄想や雑念に、
何の感情も評価も挟まず、
強引に押さえつけようとしたりかき消そうとしたりなどせず、
湧いてくる内容の意味や理由を問うことなく、
そまま放置しておいてください。

むしろ「あ、雑念がいっぱい湧いてきたなぁ。」とその相を観察できただけでも大したものだと思います。

ところで、その観察眼の持ち主は誰でしょう?

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有り難し
おきもち

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誰がそれを雑念にしているか

思いというものは発生時点においてはそれが雑念であるとか悪いものであるという思いはありません。
人間というものは不思議なもので何かやっていながらでも他のことが頭の中では思い起こされるものです。
行っている時でさえも何かが思い起こされるのですから、無言の行、瞑想、坐禅中でも当然、思いは生ずるものです。
念仏も坐禅も真言も読経も仏行というものが仏行にならないのはそこに「主体的な観察者」である「ワタクシ意識」が仏行を仏行たらしめないものです。

何かを思い起こしてしまった時、その思い起こしてしまったことを裁いたり、自分を責めることをしておられるでしょう。
その裁きの心が自分の心の中で能動的に働いているのです。
それ故に、水面に生じた波紋を静めようとしてさらに広がるように自分が自分の心の静寂さを損ねているのです。
沸いてくる思いといっても自分がそれを思い起こそうとして思い起こしたわけではありません。過去の習慣、かかわり、経験という名の業によって脳内因縁和合によって自然に生ずるわけです。
あなたはそれをすることによって何をしたいのか。
ものの本質を追うべきでしょう。

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

丹下覚元(たんげかくげん) 様
ありがとうございます。
自分が意図して作り出したわけではない雑念を払うことに執着してしまうのも「私」。
この「私」に捕らわれてしまっているわけで、これでは本末転倒ということでしょうか。
勤行の目的を、思い出させていただきました・・・・

転落院 様
ありがとうございます。
観察眼を持っているのは、けっきょく「私」ですね・・・・
雑念を払うことに夢中になってしまうのも執着、丹下覚元(たんげかくげん) 様からも同じことを、ご教示いただきました。
執着せず、この際、そのまま放置して、続けてみようと思います。

丹下覚元(たんげかくげん) 様
ありがとうございます。
自分が意図して作り出したわけではない雑念を払うことに執着してしまうのも「私」。
この「私」に捕らわれてしまっているわけで、これでは本末転倒ということでしょうか。
勤行の目的を、思い出させていただきました・・・・

転落院 様
ありがとうございます。
観察眼を持っているのは、けっきょく「私」ですね・・・・
雑念を払うことに夢中になってしまうのも執着、丹下覚元(たんげかくげん) 様からも同じことを、ご教示いただきました。
執着せず、この際、そのまま放置して、続けてみようと思います。

すいません、お礼のコメントが2重投稿になってしまいました。
大変失礼いたしました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ