死刑について
度重なる論争によって混沌としている話題でありますが、お坊さん的にどう映っているのかなと。
はっきり言って私はどちらかと言うと反対側の人間です。そもそも人が人を裁くという神にでもなったつもりなのか驕っているようにも見えている。
でも現代を生きる人々が暮らす世の中においてこの考えは泡沫の夢に過ぎないのでしょうか。
身内が殺されてもお前はそんな甘えた事を言うつもりか、人でなし薄情者、悔しくは無いのか、社会のゴミは死んで当然だ。ころせころせ。
誰も彼もアガペーを持てと言うわけでもありません。私自身も身内を殺されて正気を保てるのかわかりません。彼らと同じ事を望んでしまうやもしれません。
ですが……それでも死を持って贖罪とするのは本当に正しいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
何とも言えないから、一応の基準をみんなで作ったのでは。
死刑制度の是非については、結局のところ私も結論には至っておりません。
ところで、
「自分の信仰は東本願寺(真宗大谷派)の門徒。親鸞聖人の教えを、幼いころからおばあちゃんのひざの上でお参りしていたことが根底にある」
と言った法務大臣がいたのをご存知ですか?
あれだけは勘弁してくれよと、私は今でも思っています。
死刑制度については、まだまだ議論の余地はあるでしょうし、倫理宗教的観点からしてもじつは間違った制度なのかもしれない。しかしながら、現在、ここまでやったら死刑になるよと法律で決まっている以上、死刑判決を受けた死刑囚にはきちんと死刑に処すべきだとも思います。
死刑執行が嫌なら法務大臣になるな!!
東本願寺とか親鸞の名を語り、勝手な事言ってくれるな!!
正直、私はそう思います。
答えになっていなくて、ゴメンナサイ。
実態を把握する
昨日、二人が執行されましたね。
僧侶という立場としては、複雑です。
死刑。
目には目を歯には歯を、愛する家族を殺したのだから、あなたも同じ目に遭いなさい。
という考え方と・・
犯罪者を処刑し見せしめとし、罪を犯せば死刑になりますよ、というメッセージを社会に発信する事が主な目的と考えております。
死刑に関する本は何冊も読みました。
私が思うに、死刑執行の実態が、世間に知れ渡っていません。
また、ほとんどの本に共通しているのは、死刑囚側に立って書かれているという事です。
死刑が確定してから処刑されるまで、5年から10年が一般的です。
死刑の言い渡しは、当日の朝、主に朝食後です。
身の回りの支度も許されず刑場に連れていかれ、1時間くらいで処刑が執行されます。
ですので、朝食後が死刑囚にとって恐怖の時間となります。
刑が執行されない土日以外は、毎朝が恐怖の時間なのです。
N県で幼い女の子を浴室で惨殺した男は執行当日、入浴の日だったそうです。
扉が開き、楽しいお風呂の呼び出しだと勘違いし、洗面器を部屋に残したまま、刑場に引き立てられ、執行されました。
とにかく突然の言い渡しなのです。
執行に直接関わるのは刑務官。
ほとんど全員がやるせない気持ちになると言います。
非人道的でしょうか?
それとも当然の罰と考えられるでしょうか。
その反面、死刑以上の刑罰を望む、遺族の悲痛な叫びも受け止めなければなりません。
突然家族を失う、怒り悲しみ悔しさ。
死刑廃止を訴えるならば、遺族の感情も当然分かった上で、死刑廃止を叫んでいただきたい。
もし、自分が遺族になればではなく、地獄の苦しみを味わい続けている遺族へ向けて、直接会って持論を展開して欲しい。
私は、そう願います。
覚せい剤を使用した過去があると、刑が軽減されるのをご存知でしょうか?
後遺症または判断能力低下のためだそうです。
無罪になった例もあります。
これで犯罪の抑止力になるのか、私には疑問が残ります。
覚せい剤を使用すれば、人を殺しても罪に問われない事もあり得るのです。
私は、正しいかどうかよりも、死刑囚の実態と刑務官の苦悩、遺族の猛烈な悲しみを、また判決の矛盾を知るべきであると思います。
長文失礼しました。
もし刑務所がなければ、犯罪者は恨みを持った被害者の親族に殺されるでしょう。
次に、そこで殺された元犯罪者の親族の恨みによって被害者の親族は殺されるでしょう。
次に、殺された親族の親族によって、元犯罪者の親族は殺されるでしょう。
このように恨みと復讐の連鎖が起きてしまいます。
これを刑務所が止めているのです。
ただ、死刑か終身刑か何がいいのかという問題はあるでしょう。
お釈迦様はアングリマーラという名の大量殺人者を巧みな話術で弟子にして改心させていますから、仏教的には許すことが悟りへの道であります。しかし、アングリマーラはその後恨みを持った被害者の親族達に殺されてしまいます。(いくつかの説があります)
お釈迦様は、苦しむ彼に対して、それも因果応報だから甘んじて受けなさいと言われました。
アングリマーラは最後まで抵抗なく受け入れました。
悟りに至る為には許すことが大切、しかし、煩悩の多い私達が悟りに至ることは難しいのです。許すことは難しいのです。
私達に出来ることは、先ずは私達自身が死刑囚にならないことです。
そして、周りの人を死刑囚にならないように導くことです。
みんながそう思って、犯罪を犯さないように、他人を苦しめたりしないように、お互いに助け合って生きることによって、死刑囚は居なくなり、死刑そのものが無くなるのではないでしょうか。
敵は無明・煩悩
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
死刑制度・・復讐や応報刑では根本的な解決には至らないと仏教では考えることとなります。
何よりも「心」のありようとその心に基づく行いとしての「業」、つまり、行いの集積の問題を重視することとなります。
私たちが悪い行いをしてしまうのは、根本的には無明(無知)による煩悩の心を動機としての行いとなってしまっております。
復讐や応報刑では、その根本的な原因を無くすことは難しいものであり、できれば仏教により、無明・煩悩を打ち破ることで、善き行いを調えて参りたいものとなります。
川口英俊 合掌