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自分の考え方に自信が持てない

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有り難し有り難し 32

営業職です。
この職種についてしまったのですが、元々自分発信で何かをすることがそれほど得意ではなく、自己発信でやりたいと思うことがあまりありません。迎合することが楽であったため人の考えに従うことが楽な為、そうやって生きて来てしまいました。
ただ仕事柄、自身の考えをアピールすることが重要となるケースが多く、またそれによって他人の考え方とぶつかることが必要とされるケースも増えてきました。
今までの自身がとってきたスタンスのツケがまわってきており、自業自得だとは理解しているのですが、どういった心持ちで仕事に臨むのが良いのか、悩んでいます。
今の仕事自体は嫌いではないのですが、入社から5年目に入り、仕事量自体も増え、様々な判断を求められることが多くなってきており精神的に苦しいです。
何かアドバイスを頂けるようですと幸いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の思ったことを拾って、優先的に扱っている。

考えというものはテキトーなものです。
だれがその考えを創り出しているものでしょうか。
いつのまにかポンポン湧いてきて、しょうもない世界に羽ばたいたり、ものすごい発明も生み出すこともできます。ですが、それは自分が生み出したものではないのです。
だから、自信を持つ必要もありません。

ちょっと質問します。
「あなたは何を今日食べましたか?」
「服は何色が好きですか?」
「好きな音楽は何ですか?」
答えは???
はい。
…でてくるでしょう。
ちゃんと出てくるのです。
自分が何かをしようとかなしに。
聞かれたことにちゃんと対応する。
頼まれたこともちゃんと考えて行動する。
あなたが困っているのは、あなたが考えたことに縛られているところでしょう。
思えたことをピックアップ、チョイスしているのはあなたなのです。
思いは上流から流れてくるモモのように、どんどん、ぶらぶら流れてきます。
それは自分が作ったものではない状態で流れてきます。
それを拾い上げていることに気づくべきです。
大したことのない考えは人間は知らずの内にスルーしているものです。
その証拠にさっき思い描いた「何を食べたか」などもう忘れているでしょう。
自分が思ったことを絶対視しない。
自分がネガティブなことを思ったら、それを拾い上げない。
あなたはあなたの思ったことをわたくし視して、過剰に取り込むから苦しいのです。
つまり、あなたが今おかれている職場の環境、職場で思う事、焦り、不安、恐怖、怒り、不満…それらが生み出された直後、掴んでいるのは誰か。
それがあなたを一番苦しめている真犯人です。
人目が気になる。…人が気にしているんじゃないかと思う自分の思い。
手際が悪い。…試験が割り込んでいる。
求めらることが多い。…自分が今やっていることをその場で一度手放せない。心のダブルブッキング。自分のやりたいことを選択しているのです。
自由人は、自分の持ったことでさえも手放せるものです。
自分を苦しめているのは、自分の思いです。
一度いまやっている姿勢は捨ててしまいましょう。
その姿勢で苦しいということは、そのスタンスでは気苦労が多いという結論です。
何をなすにも心を費やさず、わたくしに費やそうとせず。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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