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感想などいただけたらと思います。

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はじめまして。よろしお願いいたします。
わたしは大学四年生で卒業までに後一単位の必修科目を取得すれば卒業できます。
あと数ヶ月がんばれば良い話しです。しかし、私は四年間通っておいておかしな話ですが授業に行きたくない気持ちが強いです。授業で学ぶことにあまり積極的になれず、学校がくだす自分への評価などに納得できる理由もありますが、納得できない理由もあります。自分なりには頑張っているつもりなのですがなんだか腑に落ちず。学生時代を振り返りかえってみましても辛い事の方が多かったような気がしています。ここまで育ててくれた親には感謝しています、親のいう常識も一理あるので。しかし、腑に落ちません。結局何も出来ない自分がいて何のために、何を学びにいっているのかわかりませんし。知識を詰めても結局もやもやします。会社にはいっても学校のようにルールがあるなら、学校も就職も何もしないでその辺で死んだ方がましに思えてしまいます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

やれやれ。

 傷つくかも知れないリスクを冒して、ご自身の心境を晒されたことには敬意を表します。ただ、「ご意見・アドバイス」ではなく「感想を」というのですから、まだご自身で突き詰めていないんだろうな、と感じます。
 「辛い事が多かった」…よくぞ気付いた、と思います。人間には欲があり、それは叶わないことの方が多いのですから、辛く感じる事が多い。学校では時たま「学校は楽しいよ、仕事は楽しいよ」という甘言をささやく輩がおりますが、「学校には楽しいことも少しはあるよ、俺から見ると」が本当で、半分以上を省略されているのです。とにかく気づいて良かった。
 「知識を詰めても、もやもやします」…これも、その通り。知識は使ってみて初めて役に立つ。ファミコンで「ドラゴンの剣を手に入れた」と言ったって、装備して使わなきゃ何にもなりません。むしろ、「使ってみたくてウズウズする」のでは?
 「ルールがあるなら」…当然、ルールはあります。そのデザインの中で泳ぎ切ることが「社会の中で生きていく」ことです。ただし、学校との違いは、「そのルール自体を、変えていく・作っていく可能性がある」ことです。
 「死んだ方がまし」…簡単に言うなぁ、と思います。パリのテロで、犠牲になった人の映像とか、見ましたか?空爆で殺された人の映像を見ましたか?嫌なことから離れたいのは構わないけれど、選択肢が少なすぎると感じます。

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一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

社会はもっと厳しい。だからこそ、面白いんだ。

大学で何を学ばれているか、ご質問からはわかりませんが、文系なら講義とテキスト購読。理系なら実験とデータ整理の日々。いずれにしても、魅力が感じられないということのようですね。

 私事で恐縮ですが、私は最初法学部の学生でしたが、雀荘と映画館と居酒屋とサークルとアルバイトで時間を費やし、あまり勉強したとは言えませんでした。それ故、就活では苦労して、滑りべり止め程度に受けた某公務員試験に辛うじてひっかかっての就職でした。いざ就職して実務についてみて、大学の法学部で学んだことで直接役立つことはほとんどありませんでした。でも、同時に法学部に居たならもう少しきちんと法律のことを勉強しておけばよかったという後悔もしました。
  個々の人間によって程度の違いはあると思いますが、就職すればあなたも似たような感想を抱くと思います。大学で学ぶことは社会人としての生きていくための十分条件とはなりませんが、必要条件となりうるものがあります。人生の中で、じっくり本を読みしっくり講義を聴くことが出来る期間なんて、そんなにたくさんはありません。大学で学べる期間が何て貴重なものであったか、と在学中はさほど感じなくても、卒業後に必ず感じます。勉学に専念できる機会と時間を与えていただいていることに感謝しましょう。それができないんなら、大学の授業料をドフに捨てるようなもんです。

 受験勉強や大学の勉強も楽ではないかもしれません。でも、所詮は紙の上の問題との闘いですし、答えは一つです。社会はペーパーテストの世界とは違います。厳しい世界です。ペーパーテストの世界では記憶力、理解力、思考力が重視されます。社会では、これらの能力に加えて、交渉力、プレゼン力なども求められます。厳しい世界ですが、社会という現場の中での新たな学びの機会であり、新たな人との出会いも有ります。
 労せずして人生の成功を得ることは出来ません。楽な道だけを選ぼうとしたって、そこに本当の楽しみや喜びを見出すことは出来ないでしょう。甘えを捨てて、困難に立ち向かい、自分の人生を切り開く。そんな気概を以て、残り少ない学生生活を送り、社会人人としてのスタートを切ってください。

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個別相談可能
 目の前の方の悩みや気持ちをしっかりと受け留め、心を開いてもらうように努めております。決して容易いことでは有りませんが、一期一会の気持ちで相談に、葬儀法事に励みたいと思います。    最初法学部部にで学び、4年間ほど公務員をしていました。(税務署勤務)その当時の学びと経験を終活相談に活かしたいと思います。                                              昭和63年5月に住職となってから、30年が過ぎてしまいました。仏教学・禅学もそこそこ真面目に学んだつもりですが、宗教学・宗教民俗学に力を入れて学びました。そういう分野については丁寧な回答が出来るかも。
一人一人の気持ちに寄り添い、傾聴に徹して、心をほぐしてあげられるよう、努めたいと思います。 それと同時に、完璧に出来るとは限りませんが、其の人が歩むべき方向を一緒に考えてあげたり、次の一歩を踏み出せるよう背中をおしてあげられるよう、努めたいと思っております。

おっしゃ、留年すっぺ('ω')ノ

自分のお金で留年大作戦はいかがでしょう。
もしくは一年プーをして世界を観てきたりとか。
多分縛られている世界が囲まれた状態なのだと思います。
留年は冗談ですが、そりゃさすがに…、と思うでしょう。
思わなければそれもまたよしですが、自分でそろそろ主体性を持つべきなのかもしれませんよ。
今までは何となーく周りに合わせてやってきたのでしょう。
自分で決めてイイのです。
あなたは傷つくのに弱いのだと思います。
傷つかないようにするためには自分の思いから自由になる必要があります。
そして、自分がいつも自分の思いに傷ついてきた、傷ついていることを知る必要があります。
ルールが外にあるんじゃないのです。
外にルールがあってもライドオンすればいいのです。波乗りのように。
その為には、自分の心に向き合い、自分と世間とをよく知ることでごんす。
自分が「るーる」や「それ」を生起させているのです。
もともとルールで無かったものが自分の中で「ルール化」されているだけではないでしょうか?禅とか仏教って、そういう自己のからくりから自分を脱却する天国への階段なのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

なら、やれ

思ったことを遠慮なく思った通りに書きます。

>結局、何も出来ない

当たり前です。学ぶということは「何かをするための準備の準備」だからです。木で椅子を作るということを逆算してみましょう。

完成←組み立て←木材の加工←木材の調達←設計図作成←基礎知識の集積(イマココ)
こういうことです。当たり前です。ライフステージのそういうトコにいるんだから当っっったり前です。それでいいのです。

ただ、私はかなり前向きに勉強しました。理由はカンタン、設計図を先に引いていたから。だからこの知識はここで使える、この説明はいつか自分が説明する側になるから、違う先生から5回目の説明だけど、説明の仕方を学ぶつもりで聴いとこうという感じで授業に臨めました。なぜでしょう?お寺に生まれて敷かれたレールの上だから?私はお坊さんになりたくなかった。反発していました。ではなぜ?

答えはカンタン、学生のうちに加工、組み立てまでやってたから。バイトしてました。バイトといっても店長が年休3日くらいで働き、非正規100人に対して正社員5人くらい、非正規も責任ある立場について残業残業ハイ終電逃した!という、今でいうコテコテのブラック企業です。私としては『バイト』してたのではなく、『仕事』をしていたつもりでしたし、お店もそのように教育し、ベテランはみんなそう考えていました。20人ほどの部署のリーダーになり、人材育成、レジ締め、売上目標の算定もしましたし、店舗全体の消耗品管理は私1人でやっていました。大変でしたよ〜。なんせそれをしながらおよそ160単位取得して卒業しましたし、図書館にも足繁く通って勉強しました。実は勉強といっても仏教ではなく、経営学だったからバイトと相乗効果で充実してたのですw

まぁ結局、卒論と両立できず半年にわたって店長と喧嘩して喧嘩別れしましたが、私の感想として言わせていただきます。モヤモヤするならやればいい。やらんからモヤモヤするのです。バイトでもボランティアでもいいからやればいいんです。その方が楽なんですから。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

質問者からのお礼

ご回答ありがとうごさいました。人の中で生きるという事はとても大変なことであると深く感じました。コメントを拝見させていただきいくつかの考えが浮かび、気づかされました。ありがとうごさいます。

誤解されないようにかきますと「死んだほうがまし」、というのは苦しむくらいなら無になったほうがましであるというような意味あいで使用しました。死者を軽んずる意図はないのです。閲覧のさいにはよろしくおねがします。

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