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久しぶりに訪れた幸せらしきものを信用できない。

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久しぶりに恋人が出来ました。プロフィールに書いた様な出来事が起きてから5年半ぶりの恋人です。

私と同じく読書好きで、とてもしっかりとした考えを持った、内面的にステキで外面的にもとても可愛い女性です。

しかしどうも、この状況に身構えてしまう自分がいます。

プロフィール記載の出来事以来、家族を除けば、それ以降の自分を支えてくれたのは、本当に、読書だけです。本の中の言葉が無ければ、今頃自分は生きていないでしょう。

あれ以来、孤独と読書が人生のパートナーでした。

しかし彼女が出来ました。
彼女は私の事を大好きなんだそうです。

しかし、仏教でも諸行無常だと言うではありませんか。その教えは誠に真理だと思うのです。

彼女と居ると確かに楽しい。話していると、その時は安らぎを覚えます。

しかし電話を切った後、デートを終えた後、だいたい次の様な事を思うのです。

「この幸せは束の間の夢まぼろしに過ぎない。きっとまた独りになる。

どんなに年月を積み重ねても、それは永遠性についてのなんの保証にもなり得ない。

ならば、この頼りない幸福に浸りきってはいけない。これを当たり前だと思ってはいけない。

どうせまた孤独になるのなら、彼女とこれ以上親密な関係になってはいけない。

しかし、彼女の存在は日に日に私の中に侵食してきます。

LINEや電話で彼女と交わす何気ないやり取りが、自分の日々の楽しみとなってきているのです。

その度合いが大きくなっていく事が、なんとも怖い。

人間は独りであること。
しかし助け合わなければ生きていけないこと。

両方とも大切な認識だと思っています。

しかしこの恋人との関係というのは、一体どういうスタンスで向き合うべきものなのでしょうか?

心を開き過ぎると依存関係へと堕落する。あるいは相手に負担を掛けたり傷つけたり、自分も傷ついてしまう。

しかし、心を開かな過ぎるのも恋人としてどうかと思う。

精神的な距離をどの様にとったら良いのか?悩んでおります。

僧侶の皆様方、仏教者としての立場から、何かしら助言など頂けましたら幸いでございます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

諸行無常のスポットライトの当て方が間違っている

諸行無常だからいつか終わりが来る、あわわわわ
諸行無常だからいつか別れが来る、ではないのです。
諸行無常だから、あなたは前の彼女のことをケロリンと忘れて今の彼女と楽しく過ごせているのです。
諸行無常だから、あなたは、今この文字を観ている時、彼女とさっきまで会っていたことも、この身心に少しも残っていないから、すがすがしいのです。
諸行無常だから、もう最初のタイトルや一行目も流れて言って居るのです。
諸行無常だから、いつでも救われている。
諸行無常だから、さっきまでの事が残り物なく、今を最高に咲いているのです。
日本の国語の教科書や仏教書の多くに書いてあるベタな諸行無常というのは大半はネガティブ思想であって、お釈迦様の教えとは程遠いものです。
本当の諸行無常とは、救いの教えです。
諸行無常だから、今、目前の全てが真新しい。
諸行無常だから、彼女と同じお店に行っても、そこで真新しくデートできるのです。
「またか」は無いのです。
「終わって虚しい」もないのです。
「いつでも終わってリフレッシュ」されているのです。
諸行無常だから「ダメ人間」さんもダメ人間をもう終わらせて、今新たに咲いているのです。我々人間の心は、諸行無常だから、いつも真新しく、水洗トイレのようにいつも真新しい水が流れているのです。(ここまで盛り上げておいて最後にトイレかい。)

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

凡夫どうし、なんだから。

 「人間は、後ろを向きつつ歩いている」という中国のことわざがあるそうです。つまり、いつも過去を参照しながら、「昔はああだった、こうだった」と見ながら、歩いていると。
 この話は、「どうせ明日は新しい一歩なんだから、せめて新鮮な気持ちで歩こうよ」ということなのですが、まぁ難しい。全部を手探りだったら、ソロソロとしか歩けませんもの。
 でもね。願誉浄史さんの仰るとおり、諸行は無常なのです。過去から学んだあなたの「今の」人生観も、不変ではありません。「あー俺、この子と一生過ごしたい!」と思える瞬間が、来ても良いのですよ。
 束の間とか、永遠という言葉も出てきますが、「永遠に大丈夫」を探していたら、それこそ一瞬のうちに人生終わりますよ。貴方は永遠が欲しいのですか?それはね、ある種傲慢ですぜ。あなた自身が永遠じゃないんですから。
 むしろ、変わらないのは情報の方です。あなたの書き込みは、自分で編集しない限り、恐らく消えません。変わりません。だから、「いま」こう考えていることに、貴方自身が捕らわれないで欲しいのです。自分が一番かわいい。だから、人間は自分の「言った事=過去」との一貫性を守ろうとする傾向があるのです。
 もちろん、他人を「傷つけないようにしないといけない」は正しいことです。しかしこれ、微妙な所ですが「傷つけたらゲームオーバー」ではないのです。「傷つけることもある。その時は、なるべく早く気づいて、挽回しなさいよ」だと、私は思っています(でないと学べません)。「ごめんなさい」が言えるか、予め回避して、言わずに済まそうとするか、の違いです。あなたの「当たり前と思ってはいけない」は、ここに繋がっています。今でさえ既に、あなたが彼女を何か傷つけている可能性もあるのですよ。
 hasunohaの最近の「お答え」のトレンドの一つに、「それ、あの人に言ったの?」があります。あなたの今の思い、「でも惹かれてるんだ」、さらけ出してみてはいかがですか。文学青年らしく。「矛盾を抱えている」そのままの姿を。誠実であることは、とっても大切です。「私は、その昔の彼女じゃないのよ」と、教えてくれるかも知れません。しょせん凡夫同士、矛盾を抱えた者どうし。その前提を共有していれば、行けるんじゃないかしら。

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おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

諸行無常

不幸も無常ですから、悪いことばかりが続くわけではありません。
もちろん、会うは別れの始めとも言います。
だからこそ、一期一会という言葉もあるのです。
とりあえず、あなたも彼女も、人間はみんな自分が一番可愛いのです。
だからこそ、他人を傷つけないようにしないといけないと、お釈迦様は説かれました。
相手を傷つけないように、親しき仲にも礼儀あり、しかし一瞬一瞬の二人の時間は大切になさってください。
ところで、お釈迦様は出家前、シャーキャ族の王子だったときに、ヤショーダラー姫と結婚されました。
で、言い伝えによると、お釈迦様と姫は遠い昔に前世でも出会っていたのです。
仏教結婚式の作法では、その話に由来する習慣(お花をお供えする)を行います。
ですから、今のおつきあいが一時的であってもすばらしいものであれば、未来世でいつかまた、その彼女となんらかの形で出会えるかもしれません。
だから、別れたからおつきあいが無駄になるわけではない、一瞬一瞬を大切に、と考えては?

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

失うかもしれない

確かに、つかの間の幸せかもしれない。しかし、今幸せなのは事実でしょ。
あなたは、その幸せ、安心感に気付いているはずなのです。心は正直に反応しています。
しかし、頭でもってそれを否定しようとしたり、傷つきたくないと抑え込んでしまっているのです。
未来のことはだれにも分かりません。考えれば不安にもなります。
しかし、今は間違えなく存在している事実です。
事実目の前の彼女を大切にし、お互いに大切にしあえる関係を作っていくことが、その先の幸せへつながるのでしょう。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ