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瞑想について

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有り難し有り難し 27

身心の痛みから少しでも解放されたいと瞑想やヨーガに興味を持ち始めました。
瞑想について、本を読んだりワークショップに通って実践してみたのですが、わからないことがあります。

説明やガイドの中で、「ありのままの自分」という言葉が出てきますが、それがどういうものなのかがよくわかりません。
「ありのままの自分」=「今現在の自分」なのか、
「ありのままの自分」=「等身大の自分」なのか、
「ありのままの自分」=「本来の自分」なのか。
その全てなのか。
そして、「等身大の自分」、「本来の自分」というものが、自分でありながら自分で理解ができず、どういうものなのかわかりません。

また、瞑想で気付きが生まれても、気づきの先にあるものが見えません。
気付いても、その先の思考や行動に今までと何ら変化が起きていないきがするのです。

こんな風に頭で考えなくても、この先も続けていくことによって、自然に答えや、何かが見えてくるものなのでしょうか。

少しでもアドバイスいただけましたら幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今自分がやってないのに体がやってくれてること

我々がスマホだとします。人間ですが。
人間もスマホも待ち受け画面状態があります。
何もせんとただじーっと。
体の痛み。大変でしょうね。少しでも取り除ければと思います。
ところで体の痛みや不調って誰がやっているのかを考えてみると結構大事なことが見えてきます。
痛みの発生時点って、
①ズキン!
②「!」
③痛いっ!
④んもー、何でこんな体になっちゃったんだろう…
⑤くそー、あの医者めー。
ざっくり申し上げますと、そういうことをやっています。ものすごく高速で。
ですが、①~③の時点って、痛いは痛いにしても「無私無我」の痛みとでもいうべきものなのです。
自分の主観が入らないということです。
本当に痛ければ我慢せず、鎮痛剤を上手に服用なさるべきです。
体の痛みだけは心ではどうしようもありません。
ですが、④とか⑤というのは、体の感覚の後から頭でやっていることです。
それは無くすることができます。
そこが上手になると「後追い思考」「後から被害者意識」「後から自分いじめ思考」が無くなりますから、今後は痛みが生じたときも今よりはきっと楽になると思います。

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丹下 覚元(たんげ かくげん)
今月の提唱 「菩提心をおこす」 菩提心をおこすということは、たとえ...

ありのままの自分とは。

ご質問を拝読させて頂きました。

仏教では人は五蘊という要素の集まりに過ぎない説きます。五蘊とは五つの要素で、
色(しき)外的要素、人の場合は肉体と思っていいです。
受(じゅ)は外界からの刺激を感受する働きです。
想(そう)はものごとを組み立て考える構想作用です。
行(ぎょう)は意思の働きです。
識(しき)は認識する働きです。
五蘊のどれか一つをとって、これは自分ですという事は出来ないはずです。そして、この五蘊の集合体は経験する事により変化します。質問者さんも肉体的変化、精神的変化をして、ずっと同じではありませんよね。
つまり、経験により変化する五蘊の集まりが「ありのままの自分」です。そして、これが無我というものです。不変的かつ実体的な自分というものはありません。

気付きとは一つ一つの行為に意識を行き渡らせる事によって普段、無意識に行っている不健全な行為を防止することです。「これは良くない事だ。」とわかっていても止めることの出来ない悪い癖を直すとも言えます。頭でわかっていても止める事が出来ないから修行するわけです。取り組む前から成果を気にしても仕方がありません。とりあえずやってみてはいかがでしょうか。

説明がわかりづらいかもしれませんので、判らない点は再度お尋ね下さい。

12月27日追記
もし、質問者さんが今の自分が「不変的かつ実体的なものでない。」と自覚されているのでしたら、それで良いと思いますが、ご質問を拝読する限りはそうでないと思います。
実際、ありのままの自分とは瞑想の過程で見えてくるものなので、やる前には判らなくて良いのではないでしょうか。

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おきもち


臨済宗寺院の住職です。皆様の良き御縁となる事が出来れば幸いです。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
私の無知な頭では少し難しいです。(汗)
とにかく何か見えてくるまで実践に励んでみようと思います。

追加であともう1点だけ質問させてください。

「ありのままの自分」を受け入れるという事は、今の自分を受け入れればよいのでしょうか?

2度にわたりご回答いただきまして、ありがとうございます。

頭であれこれ考えるのを止め、このまま瞑想を続けてみます。
ありがとうございました。

丹下覚元 様
わかりやすくご説明いただきありがとうございます。
不安や怒りのどの感情によって、本来の痛みに余計な修飾をし、自分自身で痛みを強めてしまわないように、気を付けてみようと思います。
お忙しい中ご回答いただきありがとうございました。

「仏教における瞑想」問答一覧

仏教の瞑想について教えてください

実家が浄土真宗という事もあり、瞑想に縁が無く、なんとなく勉強もしてこなかったのですが、最近になって仏教の瞑想に興味を持ち、インターネットでざっくり調べてみました。 ですが、まだ分からない部分があり疑問がいくつか解けないままです。 そこでhasunohaのお坊様方に瞑想について詳しく教えていただきたいと思い質問させていただきました。 まず前提として仏教の瞑想には止(サマタもしくはシャマタ)と観(ヴィパッサナーもしくはヴィバシャナ)の二種類があるということ、法相宗の瑜伽や天台宗の止観は止と観を包括することまでは分かりました。 ただ分からないのは禅宗の坐禅と密教の阿字観です 禅は禅定という言葉からして止なのかな?と思ったのですが、臨済宗の公案によって自己を見つめる、というスタイルは観と言えなくも無い様な気がします。 阿字観や月輪観も一見止に思えますが、ウィキペディアの古式の阿字観瞑想の項には、奢摩他(シャマタ)と毘鉢舎那(ビバシャナ)と書いてありましたし、真言宗のお寺のサイトには「阿字観は観を止より重視する」と書かれていました。 真言宗や禅宗のお坊様、或いは仏教の瞑想に詳しい方がいらっしゃれば、お聞きしたいのですが座禅や阿字観は止ですか?観ですか?それとも瑜伽や止観の様に両方を包括するのでしょうか? もし知識としてご存じないなら、実際に瞑想をした体感からくる答えでも構わないので教えてください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
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