瞑想とは
ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。
私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。
ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。
以下質問となります:
この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。
それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。
有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。
個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。
よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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全仏教徒が出家するわけではない
仏道修行とはつまるところ、戒・定・慧の三学です。
戒とは戒律、生活習慣の修行。
定とは禅定、三昧、精神集中の瞑想修行、サマタ瞑想。
慧とは智慧、観察、現象をありのままに観察して真理を悟る瞑想修行、ヴィパッサナー瞑想。
出家者は基本的に皆、三学を実践します。
キサー・ゴーダミーさんはブッダの説法に出会い、わが子を亡くした絶望から救われ、その後に出家されました。だから三学を実践して悟られたのでしょう。
ただ、全ての仏教徒が出家したり三学を実践するわけではありません。
家庭の事情等で出家できない人もいます。
また、三学は在家でも実践可能ですが、健康上の理由等で三学全てを実践できない人もいるでしょう。
たとえば、ジョギングやウォーキングは健康に役立つ修行ですが、足を怪我している人がジョギングすると過度の負担になり副作用の危険もあります。
瞑想にもそのようなケースがあるかもしれませんね。
なお、浄土宗では、この世で三学を実践できない人や、三学を実践しても悟れない煩悩だらけの凡夫や悪人でも、来世で極楽浄土(修行しやすい環境で悟りやすい心身を与えられる国)に生まれて、そこで修行して悟ることができると信仰されます。
健康上の理由で瞑想できない人も、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば来世で阿弥陀仏の指導のもと瞑想して悟れるから、まずは念仏しておけばこの人生は合格人生だと、浄土宗では考えます。
追記
チューラパンダカ尊者の例のように、お釈迦様が師匠ならば、その人の特性に応じた修行方法を示してくださるのかもしれませんね。
智慧と慈悲
ヴィパッサナーは、実在するかに見える現象や感覚が本当は生滅の連続だ、無常だ、無我だ、などと観察するので、とてつもない集中力が連続して必要です。それだけの集中力を養うと、成功します。養うためにもひたすらヴィパッサナーするしかないのですが。柔道が上達するためには筋トレやヴィデオチェックもいいのですが柔道そのものを練習するしかないようなものです。
精神疾患と言ってもたいてい自意識過剰が発端で、他者との関係に悩んでうまくいかないことで、それは我がある限り誰にでも多かれ少なかれあり、しかも仏教から見ればまだ解脱して無我を体得していない凡夫の状態なだけ、ともいえます。
>ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。
これがどういう状態かわかりませんが、落ち着けずに集中できずに、瞑想の結果が出ない、というのであれば、ひたすらやるべし、で済みます。ヴィパッサナーには柔道みたいにやり過ぎて体を痛めるなどの副作用はありません。妄想なども、「健常者」でもいっぱい出てきます。慣れと集中力の問題です。ですから、
>以下質問となります:
この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。
仏教やヴィパッサナーのせいにするよりもまずご自分の心身がまだ至っていないのではないかと考えたほうが、何度もチャレンジしてやがてうまく行く可能性が高まると思います。キサーゴータミー長老尼は、自分の精神錯乱状態に自分で気づいて自分で治したのです。
>個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。
初期仏教経典には定型句で出てきます。例えば長部第二の『沙門果経』にまず環境を選び、体を整え、それからヴィパッサナーして、などと出てきます。スマナサーラ長老の解説本は絶版かもしれませんが、片山一良先生の現代語訳が大蔵出版から出ています。長部の第一巻です。
以上は智慧の道です。自分と一切衆生に対する慈悲の心を育てて始めると、心の準備運動ができたことになり、うまく進めると思います。
質問者からのお礼
願誉浄史さま
非常にありがたいお言葉をありがとうございました。やはり精神疾患にも三学の重要性を感じました。
ただキサーゴーダミーさんの例で申しましても精神疾患(精神混濁状態)がいつ寛解したのか、精神混濁状態?で瞑想をされていたのか、肝心な部分が記されていないんですよね。
浄土宗の間口の広さ、素晴らしさもよく身にしみました。ありがとうございました。
非常に素晴らしい追記をありがとうございました。本当にそのように私も思いました。お知恵をお貸しくださり、ありがとうございました。
藤本晃(慈照)さま
初期仏教?と申しますかテーラワーダでも似たようなことを仰っているようですね。瞑想をすると不安感や怒りが増大し日常生活にまで影響します。
ですので歩く瞑想などを中心とし、チャレンジ精神を前提に無理のない範囲で明るく居れるように自分なりのスケジュールでやってくださいとのことです。一方で骨折した部分(理性)は医学で治してくださいとも仰ってますね。恐らく三学の実践と自分ができるなりの「定」を実践していくのでしょうか。そのような感じだと思います。沙門果経のページは記事が消されたか編集されたかで確認できない模様です。
お言葉をありがとうございました。
追記:病気は自分や医学で治すもので瞑想は病気を治すものではないらしく、しかし瞑想をしてくださいとあるのでよくわからないというのが正直なところです。瞑想を実践できる土台が必要なんですがそこに至るための道が見えない状況でございます。
今後のためにも追記させていただきますが、回答に不明な部分がございましたらご対応不要ですので宜しければ失礼ながらでございますがご参考ください。