hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

瞑想とは

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。
私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。

ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。

以下質問となります:
この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。

それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。

有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。

個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。

よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。

2023年5月8日 15:23

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

全仏教徒が出家するわけではない

仏道修行とはつまるところ、戒・定・慧の三学です。
戒とは戒律、生活習慣の修行。
定とは禅定、三昧、精神集中の瞑想修行、サマタ瞑想。
慧とは智慧、観察、現象をありのままに観察して真理を悟る瞑想修行、ヴィパッサナー瞑想。
出家者は基本的に皆、三学を実践します。
キサー・ゴーダミーさんはブッダの説法に出会い、わが子を亡くした絶望から救われ、その後に出家されました。だから三学を実践して悟られたのでしょう。
ただ、全ての仏教徒が出家したり三学を実践するわけではありません。
家庭の事情等で出家できない人もいます。
また、三学は在家でも実践可能ですが、健康上の理由等で三学全てを実践できない人もいるでしょう。
たとえば、ジョギングやウォーキングは健康に役立つ修行ですが、足を怪我している人がジョギングすると過度の負担になり副作用の危険もあります。
瞑想にもそのようなケースがあるかもしれませんね。
なお、浄土宗では、この世で三学を実践できない人や、三学を実践しても悟れない煩悩だらけの凡夫や悪人でも、来世で極楽浄土(修行しやすい環境で悟りやすい心身を与えられる国)に生まれて、そこで修行して悟ることができると信仰されます。
健康上の理由で瞑想できない人も、南無阿弥陀仏と念仏を称(とな)えれば来世で阿弥陀仏の指導のもと瞑想して悟れるから、まずは念仏しておけばこの人生は合格人生だと、浄土宗では考えます。
追記
 チューラパンダカ尊者の例のように、お釈迦様が師匠ならば、その人の特性に応じた修行方法を示してくださるのかもしれませんね。

2023年5月8日 20:20
{{count}}
有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
このお坊さんを応援する

智慧と慈悲

ヴィパッサナーは、実在するかに見える現象や感覚が本当は生滅の連続だ、無常だ、無我だ、などと観察するので、とてつもない集中力が連続して必要です。それだけの集中力を養うと、成功します。養うためにもひたすらヴィパッサナーするしかないのですが。柔道が上達するためには筋トレやヴィデオチェックもいいのですが柔道そのものを練習するしかないようなものです。

 精神疾患と言ってもたいてい自意識過剰が発端で、他者との関係に悩んでうまくいかないことで、それは我がある限り誰にでも多かれ少なかれあり、しかも仏教から見ればまだ解脱して無我を体得していない凡夫の状態なだけ、ともいえます。

>ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。

 これがどういう状態かわかりませんが、落ち着けずに集中できずに、瞑想の結果が出ない、というのであれば、ひたすらやるべし、で済みます。ヴィパッサナーには柔道みたいにやり過ぎて体を痛めるなどの副作用はありません。妄想なども、「健常者」でもいっぱい出てきます。慣れと集中力の問題です。ですから、

>以下質問となります:
この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。

 仏教やヴィパッサナーのせいにするよりもまずご自分の心身がまだ至っていないのではないかと考えたほうが、何度もチャレンジしてやがてうまく行く可能性が高まると思います。キサーゴータミー長老尼は、自分の精神錯乱状態に自分で気づいて自分で治したのです。

>個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。

 初期仏教経典には定型句で出てきます。例えば長部第二の『沙門果経』にまず環境を選び、体を整え、それからヴィパッサナーして、などと出てきます。スマナサーラ長老の解説本は絶版かもしれませんが、片山一良先生の現代語訳が大蔵出版から出ています。長部の第一巻です。

 以上は智慧の道です。自分と一切衆生に対する慈悲の心を育てて始めると、心の準備運動ができたことになり、うまく進めると思います。

2023年5月9日 8:58
{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

願誉浄史さま
非常にありがたいお言葉をありがとうございました。やはり精神疾患にも三学の重要性を感じました。

ただキサーゴーダミーさんの例で申しましても精神疾患(精神混濁状態)がいつ寛解したのか、精神混濁状態?で瞑想をされていたのか、肝心な部分が記されていないんですよね。

浄土宗の間口の広さ、素晴らしさもよく身にしみました。ありがとうございました。

非常に素晴らしい追記をありがとうございました。本当にそのように私も思いました。お知恵をお貸しくださり、ありがとうございました。

藤本晃(慈照)さま
初期仏教?と申しますかテーラワーダでも似たようなことを仰っているようですね。瞑想をすると不安感や怒りが増大し日常生活にまで影響します。
ですので歩く瞑想などを中心とし、チャレンジ精神を前提に無理のない範囲で明るく居れるように自分なりのスケジュールでやってくださいとのことです。一方で骨折した部分(理性)は医学で治してくださいとも仰ってますね。恐らく三学の実践と自分ができるなりの「定」を実践していくのでしょうか。そのような感じだと思います。沙門果経のページは記事が消されたか編集されたかで確認できない模様です。

お言葉をありがとうございました。

追記:病気は自分や医学で治すもので瞑想は病気を治すものではないらしく、しかし瞑想をしてくださいとあるのでよくわからないというのが正直なところです。瞑想を実践できる土台が必要なんですがそこに至るための道が見えない状況でございます。

今後のためにも追記させていただきますが、回答に不明な部分がございましたらご対応不要ですので宜しければ失礼ながらでございますがご参考ください。

「仏教における瞑想」問答一覧

うつ病の中でも利他の心を持つためには

5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

マインドフルネスについて

瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ