こんにちは。いつもありがたいお話をしていただきありがとうございます。 お聞きしたいのですが、時々自分の心を見つめても何が原因なのかよくわからない時があります。そういう時はどうすればいいのでしょうか。 今執着しているな、これは慢心だな、などとラベリングすることで心が軽くなることもあれば、心を見つめてもよく見えずずっと何かに囚われている感覚がすることもあります。 うまく言葉にできず分かりにくくなってしまい申し訳ありません。 しかしそういう時はそういうものだと受け入れるしかないのでしょうか。
趣味で呼吸に集中し、雑念を観察する瞑想をしています。最近、完全に雑念のない静寂の状態を5分ほどまで維持できるようになりました。(最初は5秒も無理でした)ふと疑問に思ったのですが、瞑想の状態を24時間365日常に維持し続けることは可能なのでしょうか?仮に可能でしたら、コツなど教えていただけますでしょうか?
難病の再発で、真言宗のお寺で得度するつもりでしたが、やめておこうと考えました。 理由は住職様に、難病を理由に得度を延期したい旨を伝えたら「治療で飲むステロイドをやめて、瞑想した方が良い」と言われ、びっくりしたからです。 いやいや、私の難病はステロイドを飲まないと、他臓器不全を起こして死んでしまうのですが! という趣旨の話をしたら、笑われました。 持病の双極性障害は落ち着き、今まで関わってくれた人達のお陰で50年いきてこれたので、今は冷静に残りの人生を誰かの役に立てるように生きたいと思えるようになり、得度したいと思いました。 でも、よく考えたら得度しなくても、そういう生き方はできます。 正直、話を聞かず医療も否定する住職様に幻滅してしまいました。 これからも、自分で好きな観音経や他のお経の勉強も、書籍で出来ます。 ご先祖供養の仏前勤行も、音源を手に入れたので、自分で練習して出来ます。 お坊様も人ですから、色々な方がいます。 僧侶としての経験は立派で尊敬していますが、なんとも複雑です。 仏壇やお位牌の開眼供養を、大したお布施も出来ないのに快く受けてくれる僧侶の友人の紹介の住職様なので、これから住職様と、どう関われば良いかなと考えています。
私は親友の影響で日蓮宗系の新興宗教に入っていました。親友が亡くなり、先祖を大切にしろと言う教えだけは守り墓参りしていると、本堂に人が集まっていて訪ねてみることにしました。 4年前の3月のことです。住職は瞑想の大切さをとき、私が新興宗教に入っていて抜け出せなくて困っているというと仏具をあづかってくれるというので、今まで使っていた仏具を住職に預けました。それから、お寺の瞑想会に参加し、お寺の瞑想会はお金がかからないこともあり4年通いました。 しかし、昨年母が左半身麻痺になりました。今は歩ける位回復したのですが、介護しなければならないところはまだまだあり、引っ越したのでお寺との距離も離れてしまい、前のように瞑想しにお寺にはいけなくなってしまいました。私自身、去年入院して訪問看護さんにきて貰うことになり今のところ安定しています。今年はボランティアデビューもする事ができました。それで思ったのが瞑想会はもう頻繁にいけないということです。それはお世話になった住職とのお別れであり、お墓があるので完全に会わなくなるわけではないですが、来月護寺会費等の振り込み口座を聞きに行く約束をしました。これでもう手渡しで会費を払うこともなくなります。それは面と向かって住職と話すことはもう失くなるということです。 お金はないですが、何か手土産かいくらかお布施をしたほうが良いでしょうか。手紙とかかいたらおかしいでしょうか。
強迫性障害の影響もあるのですがお岩様に対してとても失礼なことを思ってしまった後脳がフリーズしてしまい今まで通りリスペストや謝る気持ちが薄れてしまいました。何か悪いことが起こる暗示でしょうか?神社に行っても元の気持ちに戻りません。
いつもご丁寧に回答頂き誠にありがとうございます。 昨年大病を患うものの、治癒して現在経過観察中です。 自分の命に向き合い、残りの人生を大事に活かして過ごしたいと思いながらも、日々の仕事をただこなす毎日のようで、何か充足感に欠けております。 この年齢になりながら、残された人生で本当の自分は何をしたいか・すべきかを見つめ直したく、瞑想による内観がよいと知り実践したく考えております。 今まで、息を数えたり、呼吸に集中して別の考えが浮かんだら元に戻すようなマインドフルネス瞑想を実践し、それなりに終えた後はスッキリして安定した気分になりますが、”自分は何を・・・”などと考えや思いを馳せると、呼吸が乱れたりどうもスッキリ感に至りません。 やり方が違うのか、まだ慣れていないだけなのか、このあたり僧侶の方々からアドバイスを頂きたくお願い申し上げます。
こんにちは。私は統合失調症で精神科に通院して、3回入院して今は訪問看護さんにきてもらいながら、週5日飲食店でパートしています。 とある10年前くらい新興宗教に友人の誘いで入って、最初は友人を助けたい、辞めさせたいという思いがあり入会したのですが、とうとう洗脳の溶けないまま、亡くなってしまいました。 そういうこともあり、自分のお墓のある菩提寺に相談しに行きました。 そうしてたすきや数珠やお札をあづかってもらい、瞑想会に参加するようになり、瞑想するようになったのですが、瞑想状態になると独り言がとまらなくなってしまい、明らかに拒否反応があり、私の心の奥底に宗教はいけないという心があるのかもしれないと感じました。 私はすがる思いで神社に御祈祷をうけたり厄除けをうけたりしました。 精神科の主治医の先生も憑依されてるね。怖いね。と言っていました。 どうしたら独り言がなくなりますか。 私は不注意で物を壊すなど、悪いことばかりしたから地獄に落ちたのでしょうか。独り言の内容はひどいとか高い声で言ったり、唸ったりしてます。 通勤のときもひどいです。
5年ほど心の病に苦しんでおります。最初は適応障害という診断でしたが症状が悪化し、3年前にうつ病と診断されました。 それでも昨年から始めた漢方の治療やカウンセリング等の効果で体調は良化しており、検査の数値も改善してきています。 しかしながら「ものを考える余裕」が生まれたこともあってか、生き方に対する苦悩は深まるばかりです。 うつ病に向き合う手がかりとして、宗教・哲学・心理学など多くの本に触れているのですが、その多くで「他者に関心を持つこと」「他者と関わること」「他者のためにはたらくこと」が幸せへの道として説かれていました。仏教においても、「利他」は大切な考えだと思います。 しかし、今の私には「他者のためにはたらくこと」はおろか、「他者と関わること」も考えられません。他者とつながりを持つことを恐ろしいと感じてしまいますし、他者のことを考える余力自体も不足しているように思われます。毎日念仏をお唱えするときも、自分の身体のことや心のことばかりを考えてしまいます。 自分でも「利他の心」を持てたらとは思うのですが、負のループに入ってしまっているような気がしております。 勿論、日々の中で「他者を傷つけないように」「他者を不快にさせないように」と心がけているつもりではおりますが、それだけで良いのか、と自問自答してしまいます。 どのような心がけで日々を過ごせば良いのか、ご助言を賜りたく思います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。
タイトル通りですが、やる気の波がありましてどうしてもやる気が起きない、少々の良い波が来て瞑想を始めるが全くもって集中力がない。 強引に始めて押さえつけると自我が暴走する。瞑想が実にくだらないものに感じてしまう。 しかし次の波が来るまで待てば良いと考えてますので後は仏道の習慣化ですかね、特に問題視してませんが何かご指摘がありましたらお願い致します。 真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。 よろしくお願い致します。
私は精神疾患を持っていますが性格みたいなものだと医師から言われています。 質問ですが、ヴィパッサナー瞑想を行っていて逆に精神疾患の症状が悪化したり自我、我が逆に強烈に強くなってしまうのはなぜでしょうか? メカニズムというか原因といいますか・・・ またその状態におちいった際の対処も教えて頂けると助かります。 この反動みたいなものが日常生活にも影響がでてきて非常に困ります。
台湾にいた頃道士さんから内丹法という瞑想を教わり以来続けています。 時折何とも言えない気分の良い状態になりその感覚を追い求めるようになりがちです。 溺れないよう景色を眺めるように客観視に努めるということでしょうかね。
・お坊様へ 座禅や瞑想を独りで行うと危険ですか? 「現実世界に戻ってこれなくなるかもしれない」と、お寺の方に言われた事があり怖くなりました。そんな不思議な事があるのでしょうか? ・真言宗のお坊様、チベット仏教に詳しいお坊様 阿字観やチベット仏教の瞑想もしてみたいと思い、色々な本を読もうと思っています。本を手掛かりに阿字観やチベット仏教の瞑想を独りで行おうと思いますが、やはり独りで行うと危険はあるのですか? 皆様方、お教えくださいますと大変ありがたいです。 よろしくお願いいたします。
ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想を独学で実践しております。 最近呼吸の瞑想を始めて眠気に襲われるのですが、私には入眠時にたまに出会った人たちの声や、テレビで聞いたことがある声などが聞こえてくるケースがあります。 この幻聴?に関して暗いイメージはなくもうすぐ寝るなとか、あの時のあの人の声だなど微笑ましい感じでつきあってます。 呼吸の瞑想を始めて最近では毎回幻聴?がありますが中断すべきでしょうか。 問題となっている場合、対策をご教授頂ければ助かります。 妄想に関しては頭に浮かぶ映像も妄想とカテゴリ化されると思うので映像は妄想で遮断してます。 幻聴?はとりあえず妄想で遮断するようにしてますが、眠気で後半はほぼほぼ寝かけてる感じです。あと幻聴?も後半ひどいです。 専門的な質問となりますのでご返信なくても結構ですので、よろしければでご対応頂ければ幸いでございます。
独学でとりあえずの慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想をしてますが,よく気分が落ち込みます。 私はコミュニケーションに問題があり人間関係がうまくいかないため、特にガクンと落ちた際にSNSや人間に過剰依存し悪循環に陥りどん底(酷い体のだるさ、微熱)まで気分が落ち込みます。 まず日々の瞑想を充実させる事は大前提ではありますが、上記のようなメンタル的などん底状態の際に行うヴィパッサナー瞑想は「精神的に落ち込んでいる」というフレーズで客観視したらいいのでしょうか。 全くもってやり方が間違っている場合もよろしければ他の方法などありましたらなんでもご教授ください。 どうぞよろしくお願い致します。
瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。
質問1 思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか? 質問2 禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか? 御回答よろしくお願いします。
スマナサーラ長老さんが、サマタ瞑想よりもヴィパッサナー瞑想を推奨していらっしゃる文章を目にしたのですが、 臨済宗の座禅(数息観)は、サマタ瞑想に入りますか? 1日のうち、臨済宗式での座禅も10分くらいして、スマナサーラ長老さん式の実況瞑想を別途1時間。 (連続ではなく、一日のうちで、別の機会をもうけて。) そんな感じで実践してOKでしょうか? それとも、ミックスせずに、長老さんオススメ方式でいくなら、臨済宗の座禅はやめてしまって、実況瞑想(ヴィパッサナー瞑想)オンリーでいったほうが良いでしょうか?
ある時から大いなる意識の存在を思いだし,日々瞑想等を通して今この瞬間を生きる事を心掛けています. そうしている中で完全に今を感じられる時は内側から感じる充実感と共に,いわゆる気づきのアイデアや閃きが降りてくるのですが その時の反応のしかたが分からなくて困っています. ワクワクする方向へ進むのが人生の指標と思うのですが,思考には執着するべきでは無いという思いと矛盾してしまいます. なぜなら気づきが起きる時はワクワクするので,その気持ちや閃きを更に追及しようとしてしまうからです. この場合でも,自分からその思考を広げたり追いかけたりするのは避けるべきなのでしょうか? 世の数学者や哲学者,科学者達は皆思考の追及の末に様々なアイデアを出すのではないでしょうか? それとも意図せず時に突如降りてくる気づきのような閃きを積み重ねているのでしょうか? どうか知恵をお貸し頂けると幸いです.
実家が浄土真宗という事もあり、瞑想に縁が無く、なんとなく勉強もしてこなかったのですが、最近になって仏教の瞑想に興味を持ち、インターネットでざっくり調べてみました。 ですが、まだ分からない部分があり疑問がいくつか解けないままです。 そこでhasunohaのお坊様方に瞑想について詳しく教えていただきたいと思い質問させていただきました。 まず前提として仏教の瞑想には止(サマタもしくはシャマタ)と観(ヴィパッサナーもしくはヴィバシャナ)の二種類があるということ、法相宗の瑜伽や天台宗の止観は止と観を包括することまでは分かりました。 ただ分からないのは禅宗の坐禅と密教の阿字観です 禅は禅定という言葉からして止なのかな?と思ったのですが、臨済宗の公案によって自己を見つめる、というスタイルは観と言えなくも無い様な気がします。 阿字観や月輪観も一見止に思えますが、ウィキペディアの古式の阿字観瞑想の項には、奢摩他(シャマタ)と毘鉢舎那(ビバシャナ)と書いてありましたし、真言宗のお寺のサイトには「阿字観は観を止より重視する」と書かれていました。 真言宗や禅宗のお坊様、或いは仏教の瞑想に詳しい方がいらっしゃれば、お聞きしたいのですが座禅や阿字観は止ですか?観ですか?それとも瑜伽や止観の様に両方を包括するのでしょうか? もし知識としてご存じないなら、実際に瞑想をした体感からくる答えでも構わないので教えてください。 よろしくお願いします。