ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想を独学で実践しております。 最近呼吸の瞑想を始めて眠気に襲われるのですが、私には入眠時にたまに出会った人たちの声や、テレビで聞いたことがある声などが聞こえてくるケースがあります。 この幻聴?に関して暗いイメージはなくもうすぐ寝るなとか、あの時のあの人の声だなど微笑ましい感じでつきあってます。 呼吸の瞑想を始めて最近では毎回幻聴?がありますが中断すべきでしょうか。 問題となっている場合、対策をご教授頂ければ助かります。 妄想に関しては頭に浮かぶ映像も妄想とカテゴリ化されると思うので映像は妄想で遮断してます。 幻聴?はとりあえず妄想で遮断するようにしてますが、眠気で後半はほぼほぼ寝かけてる感じです。あと幻聴?も後半ひどいです。 専門的な質問となりますのでご返信なくても結構ですので、よろしければでご対応頂ければ幸いでございます。
独学でとりあえずの慈悲の瞑想とヴィパッサナー瞑想をしてますが,よく気分が落ち込みます。 私はコミュニケーションに問題があり人間関係がうまくいかないため、特にガクンと落ちた際にSNSや人間に過剰依存し悪循環に陥りどん底(酷い体のだるさ、微熱)まで気分が落ち込みます。 まず日々の瞑想を充実させる事は大前提ではありますが、上記のようなメンタル的などん底状態の際に行うヴィパッサナー瞑想は「精神的に落ち込んでいる」というフレーズで客観視したらいいのでしょうか。 全くもってやり方が間違っている場合もよろしければ他の方法などありましたらなんでもご教授ください。 どうぞよろしくお願い致します。
瞑想を2週間ほど前から朝の日課にしています。欲を少しでも手放せたらと思い、始めました。 そして、昨日仕事中にふっと目の前の仕事に全意識が向いている心地よさを体験しました。これがマインドフルネス?と思いました。15分くらいしか持ちませんでしたが。 どうしても自分で自分を苦しい状態にしてしまうので、どうしたらもう少し楽に生きれるだろうと思い、このマインドフルネス状態が長く続けばいいのでは?と考えています。 そして、大人になると生活の7割くらいが仕事なので、仕事中にマインドフルネス状態が続けば毎日がもう少し楽になると考えました。 しかし、仕事内容が慣れているものであったり、どう進めるか想像つくものであればマインドフルネス状態になりやすいと思ったのですが、仕事内容によっては難問にぶつかったり、やったことないことをやらないといけないことだってあります。クリエイティブ系の職種のため、アイディア出しなどはいつも苦しいんでいます。今思うと、まだこの職種の経験も浅いこともあり、8割ほどの仕事内容にいつも苦しめられています。難問にぶつかった場合もただ難問に向き合うだけでマインドフルネスなのでしょうか。 マインドフルネスについては本などを読んで、自分なりに解釈しているところもあるので間違いがあれば訂正していただきたいです。 仕事中あっちこっち気持ちが散らかるので、マインドフルネスの実践ができたらなと思います。
質問1 思考を挟まず「ただ感じるまま」でいる状態、つまり「その様であるものはその様である」という絶対安心の境地において、六根の「意」に対応する、リアルタイムで湧き流れるこの「法(思考・想像)」すらも「ただその様であるだけ」という認識なのですか? 質問2 禅宗では「自他の区別分別が無くなる」系の悟りエピソードをよく聞きますが、これはあくまで禅定が深まった状態なのではなく、悟りが完成した際に起こる心理的または精神的体験であり、まさにそのような体験・感覚こそが「悟りの本質」であり「悟りそのもの」であり「悟りの境地の証左」でもあるという認識でよろしいでしょうか? 御回答よろしくお願いします。
スマナサーラ長老さんが、サマタ瞑想よりもヴィパッサナー瞑想を推奨していらっしゃる文章を目にしたのですが、 臨済宗の座禅(数息観)は、サマタ瞑想に入りますか? 1日のうち、臨済宗式での座禅も10分くらいして、スマナサーラ長老さん式の実況瞑想を別途1時間。 (連続ではなく、一日のうちで、別の機会をもうけて。) そんな感じで実践してOKでしょうか? それとも、ミックスせずに、長老さんオススメ方式でいくなら、臨済宗の座禅はやめてしまって、実況瞑想(ヴィパッサナー瞑想)オンリーでいったほうが良いでしょうか?
ある時から大いなる意識の存在を思いだし,日々瞑想等を通して今この瞬間を生きる事を心掛けています. そうしている中で完全に今を感じられる時は内側から感じる充実感と共に,いわゆる気づきのアイデアや閃きが降りてくるのですが その時の反応のしかたが分からなくて困っています. ワクワクする方向へ進むのが人生の指標と思うのですが,思考には執着するべきでは無いという思いと矛盾してしまいます. なぜなら気づきが起きる時はワクワクするので,その気持ちや閃きを更に追及しようとしてしまうからです. この場合でも,自分からその思考を広げたり追いかけたりするのは避けるべきなのでしょうか? 世の数学者や哲学者,科学者達は皆思考の追及の末に様々なアイデアを出すのではないでしょうか? それとも意図せず時に突如降りてくる気づきのような閃きを積み重ねているのでしょうか? どうか知恵をお貸し頂けると幸いです.
実家が浄土真宗という事もあり、瞑想に縁が無く、なんとなく勉強もしてこなかったのですが、最近になって仏教の瞑想に興味を持ち、インターネットでざっくり調べてみました。 ですが、まだ分からない部分があり疑問がいくつか解けないままです。 そこでhasunohaのお坊様方に瞑想について詳しく教えていただきたいと思い質問させていただきました。 まず前提として仏教の瞑想には止(サマタもしくはシャマタ)と観(ヴィパッサナーもしくはヴィバシャナ)の二種類があるということ、法相宗の瑜伽や天台宗の止観は止と観を包括することまでは分かりました。 ただ分からないのは禅宗の坐禅と密教の阿字観です 禅は禅定という言葉からして止なのかな?と思ったのですが、臨済宗の公案によって自己を見つめる、というスタイルは観と言えなくも無い様な気がします。 阿字観や月輪観も一見止に思えますが、ウィキペディアの古式の阿字観瞑想の項には、奢摩他(シャマタ)と毘鉢舎那(ビバシャナ)と書いてありましたし、真言宗のお寺のサイトには「阿字観は観を止より重視する」と書かれていました。 真言宗や禅宗のお坊様、或いは仏教の瞑想に詳しい方がいらっしゃれば、お聞きしたいのですが座禅や阿字観は止ですか?観ですか?それとも瑜伽や止観の様に両方を包括するのでしょうか? もし知識としてご存じないなら、実際に瞑想をした体感からくる答えでも構わないので教えてください。 よろしくお願いします。
自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています 個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか 今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います 瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります 個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか
瞑想をやってみたいのですが、うまくいきません。 多動症でじっとしていることが苦手です。(病院でもらった薬を飲んでいますが)いつも頭の中が散らかっており、思考に耐えられなくなってしまうので歩き回って紛らわすことが多いです。 また、そうではない時も自分がただそこにある、ということ"だけ"なのももどかしくてネットサーフィンをするなど常に刺激をむさぼっています。小説や教科書などのアナログの媒体はすぐに飽きてしまいます。 何も為していないけれど、一日中頭が働いているので疲れやすいです。何とか落ち着きたくて瞑想を試してみたいのですが、思考を沈静化させるコツはあるでしょうか?
瞑想を毎日1時間行っていますが、ある日「自分で考えろ」「解放」と頭の中で感覚として受け取りました。 目を瞑ってすぐに1時間経っていたので、不思議だなと思いました。 この状況をどのような状態なのでしょうか? 世間で言う悟り?お告げ?良く分からないです。 どの仏様がおっしゃたのかも分からないです。 この受け取った言葉はどうしたらいいのか分からないので、教えて頂けたら嬉しいです。 自分で考えろって言われた時点で質問すると、駄目な気がしますがよろしくお願いします。
瞑想や禅やマインドフルネスなどをしようとすると、しなきゃいけないと思うのか、 気分が悪くなります。 ですので、歩いているときに意識したり、 食事をしているときに意識したりと、 簡単なことからやっていこうと思ってやってみたのですが、そこでも、瞑想をやっている、と強迫観念があるのかわかりませんが、気分が悪くなってきます。 ですので、ここ半年は瞑想や禅やマインドフルネスなどはやっていませんでした。 しかし、瞑想や禅など、どんな形であれやっていた当初のことを最近思い出して、その時の自分と今の自分を比較してみたら、人の発言にすぐ反応してしまって、疑いもせず思考の声を信じきっている状態で、もう一度瞑想や禅をしたいな、という気持ちが現れてきました。 そして、また瞑想や禅に挑んでみたのですが、半年前と変わらず、気持ちが悪くなってしまいました。 生活に支障が出るので、今はやっていないのですが、どうにか瞑想や禅をすることは出来ないでしょうか ちなみに半年前は頭の痺れが現れると書いて相談致しました。
瞑想をしようとすると、またしていると、右頭のこめかみらへんがピリピリと神経痛のような痛みを感じてしまいます 瞑想をしていて、頭にピリピリ感を感じていたお坊さんはいらっしゃらないでしょうか 質問受付数も制限されている今に聞く質問ではないとずっと考えていたのですが、 自分にとって瞑想(サマタやヴィッパサナー)ができないということは、生きるという行為が無意味と感じてしまうほど 大きなことなので、質問させていただきました
最近ヴィパッサナー瞑想を定期的にしているのですが、予想以上に悪戦苦闘をしております。 特に眠気が酷いです。 疲れているわけではないのですが、目を閉じた途端に襲ってきます。 しかし目を開けたり休憩をすると目が覚めます。 もちろん事前の睡眠時間はしっかりとっております。 分析するに疲れからではなく、学生時代に授業中に眠くなり、休憩時間には目が冴える類の眠気と一緒なので、怠け心が原因だと思います。 まさかここまで自分の心が弱いとは思っていなかったので驚いています。 (自分の心はなによりも弱く、誰よりも強敵です) ここで質問ですが、僧侶の皆様は行や座禅を組まれているときに、怠け心から眠くなったらどのように対処していますでしょうか。 私は眠くなりだすと結跏趺坐にして痛みで目が冴えるようにしたり、息をゆっくり深く吸って脳に酸素を行き渡らせる様にしておりますが効果は限定的です。 最終的には諦めて何かしらの動く瞑想をしております。
夜寝る時、いつも嫌なことを思い出したり妄想したりして雑念のせいで目が何度も開いてしまいます。 こういうことには瞑想が良いと聞いて、色々やり方を調べてやってみても効果がありません。 嫌なことを受け止める、受け流す、抑えてみる、マインドフルネス、ヨガ、呼吸法…どれも効果がありません。 考えすぎるのがいけないのでしょうか… お坊さんは修行中はどうやって瞑想してますか?
どうもお久しぶりです。 今回の質問は足のしびれを素早く治す方法についてです。 苦を無くすという目的の元、たまに寺に行ってヴィパッサナー瞑想を行っています。 身体が硬いので結跏趺坐を組むまで、音を立てながら2分ほどかかってしまうのですが何とか組めるようになりました。 10分位(感覚値)すると足がしびれだし、そこから10分(感覚値)ほどするとしびれを感じなくなります。 痺れが治まると眠気が出てくるのですが、呼吸を整えて観察しています。 そしてさらにそこから20分(トータル50分前後)ほどすると、白い雲のような眩しい光や、建物の外の駐車場に停車しようとする自動車等の相(ニミッタ)が見えてきます。 相が煩わしいので5分くらい観察したところで瞑想を止めてゆっくりラベリングしながら立ち上がろうとするのですが、足が折れたんじゃないかというくらい痺れて力が入りません。 座り方は、指導者の方が、座布団の端を折り曲げて二重にし、そこにお尻の座骨を落として、座布団に乗せるのは座骨だけ。ひざの端は地面につける。そして体を伸ばして肩の力を抜いた後、板になった様にとのことでした。 個人的には三角フラスコをイメージし身体をまっすぐにして、結跏趺坐を組んだ足は固定されており全く動きません。 ここで質問なのですが、痺れを早く治す方法などありますでしょうか。
身心の痛みから少しでも解放されたいと瞑想やヨーガに興味を持ち始めました。 瞑想について、本を読んだりワークショップに通って実践してみたのですが、わからないことがあります。 説明やガイドの中で、「ありのままの自分」という言葉が出てきますが、それがどういうものなのかがよくわかりません。 「ありのままの自分」=「今現在の自分」なのか、 「ありのままの自分」=「等身大の自分」なのか、 「ありのままの自分」=「本来の自分」なのか。 その全てなのか。 そして、「等身大の自分」、「本来の自分」というものが、自分でありながら自分で理解ができず、どういうものなのかわかりません。 また、瞑想で気付きが生まれても、気づきの先にあるものが見えません。 気付いても、その先の思考や行動に今までと何ら変化が起きていないきがするのです。 こんな風に頭で考えなくても、この先も続けていくことによって、自然に答えや、何かが見えてくるものなのでしょうか。 少しでもアドバイスいただけましたら幸いです。
友達から瞑想を少し教えてもらいました。 実際瞑想って難しいですか? いろいろ調べたら師匠や正しく教えてくれる人に習った方が良いと書いてありました。 単独で瞑想を追及した方が何かに気づき今ある感情で説明できる感覚ではないので説明が困難なのですが、 概念や映像ではなく、心の奥底にある何かが外部(世界)と繋がったのです。どの位の時間その感覚を手に入れていたかは定かではありませんが、 暫くするとその感覚は失われました。と仰っています。ちなみにその方はこの時の瞑想の後遺症で 今も心療内科に通っています。
マインドフルネスをやっているのですが、hasunohaを観覧していたら、独学(ネットから見たもの)で瞑想を行うのは良くないとの回答も見たのですが、最近では海外や日本の企業、そしてテレビでも取り上げられていて、自分でもやってみたら、効果はある気がするのですが。 辞めるか、続けるか迷っています。 またマインドフルネスですが、毎日行っていて数日途切れてしまった場合は、また毎日行うようにすれば良いのでしょうか? 宜しくお願いします。
どうもこんばんは。 日曜日に生まれて初めてヴィパッサナー瞑想というのをやってみました。 苦の原因が想像していたものと一緒だったという事で、その確認ができて良かったのです。 今回は禅をご指導されていらっしゃる方に質問が二つあります。 1つ目は客観視をしてみると思ったよりも身体が多数の箇所で『声を出している』事に気づきそれを確認していくと同時進行すぎるために『気づきの処理』がおろそかになるのですが、一つの事だけに集中した方が良いのでしょうか。 例えると、奈良公園で鹿煎餅を持っている手とは別の手で鹿を数えていると、数えている鹿が動き回っていて、更にそれとは別の鹿が寄って来て鹿煎餅を食べようとし、更に別の鹿が背後からタックル(痛み)してきてタックルしている鹿を見た瞬間に鹿せんべいを食べられて、結局数えていた鹿が何匹いるか分からなくなりもう一度数え直す、みたいな感覚です(分かりにくいですが)。要は処理能力超えました。どうすればよいでしょうか。 2つ目が、座布団敷いて畳の上で、座り方もあぐらだったにもかかわらず、足が無茶苦茶痛くなったり、つったり、治ったりだったのですが、これは慣れれば大分ましになるのでしょうか。 また背中がだんだん曲がっていく(猫背)場合、どのように直すように指導していますか(無意識に曲がるため)。
いずれは阿字観の手ほどきを受けるつもりで、今は数息観で瞑想を行っています。 スマホに瞑想のアプリがあって、ちょっと気分転換したい時に便利なのですが、困ったことに、本格的な瞑想の間にアプリのナレーションや音楽が雑念として入ってきてしまうのです。 もともと、あまり雑念には悩まされなかったので残念です。 ご本尊様の前で薄眼を開けて瞑想するといくらか和らぎます。 瞑想用の音楽のCDやアプリも試し聴きしましたが、必要ないように思います。瞑想アプリは結構快適な気分になるのですが、避けたほうがいいのでしょうか。
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